哲学ブログ

大叔母の死~想いや学び~

 先日、私の祖母の姉(大叔母)が亡くなった。98歳の人生にて、天寿をまっとうしたと思う。私にとっては祖母の一人で、自分の「ばあちゃん」と思っていた存在だった。祖母兄妹の中でも、一番厳格で真面目で、厳しいばあちゃんであった。家族のだれもが認知症にならないと思っていたが、一番重い認知症になってしまった。 

 ただ、大叔母は認知症になって幸せだったのかもしれない。何事も真面目に考える人であり、真面目に考えるあまり、本能的に考えるのが嫌になったんじゃないかなぁ等と思う。結婚しておらず、私の母や叔母には、子供がいなくて自分がボケた後の心配をしていたそうだ。皮肉なのか分からないが、子供がいない事を気にしていたのに、子供の日に亡くなった。

 私は、大東亜戦争で日本のために命を落とした若者たちの「特攻隊」という人たちが祭られている記念館に行って、死について色々と考えており、その記念館から帰った直後に大叔母の死の知らせが来た。職員の話では、昼食を食べた後に職員の言葉に対してニコニコしながら眠って、その40分後くらいに職員が部屋に行ったら、心肺停止状態だったとのことである。

 私は高齢者施設で相談員をしているので、お年寄りの死に立ち会うことはよくある。その中で、身寄りがおらず率先して駆けつける人がいなかったり、子供がいても絶縁状態みたいな感じで孤独に死んでいく人は多い。私の大叔母は子供はいなかったが、私を含め自分は大叔母の孫と思っている人や、大叔母の子供のようなものと思って駆けつけてくれる人が何人かはいた。

 私のイメージであるが、大叔母は子供がいなかった分、自分の兄妹やその兄弟の子供の為に尽くしてくれた人であった。自分は食べたい物や欲しいものは我慢し、質素な生活を送っていたが、兄妹やその孫たちには金銭的な援助をあまり惜しまずしていた。そんな大叔母がつくった人生だからこそ、子供がいなくても、慕う親戚がいたのだと思う。

 大叔母が亡くなった特養の霊安室(死体を置く場所)は、入り口のすぐ横にあり、入居するときはもちろん入り口から入って頂くが、亡くなって帰るときも入り口から出て頂きお見送りするという考えのもとに、入り口のすぐ横に霊安室をつくったそうだ。葬儀屋がくるまで、施設の職員が、一人一人お線香をあげに霊安室に来ました。すごく有難く感じた。

 大叔母は神道であり、葬儀は「神葬祭」であった。色々な儀式様式があり、最初の方にある「献饌の儀(けんせんのぎ)」という儀式で、位牌にしてある蓋を取り、最後の方にある「撤饌の儀(てっせんのぎ)」という儀式で位牌に蓋を閉める場面が印象的であった。そして、火葬場でも神主が来て儀式を行い、最後のお別れをした。

 認知症になって4年間くらいで病院から老人保健施設、老人保健施設からグループホーム、グループホームから特養、と施設を転々とした。在宅での生活は無理であった為、半ば無理やり訳が分からない大叔母に施設に入ってもらったが、この4年間の施設生活が大叔母にとって幸せだったのか不幸だったのかわからない。

 ただ、私の人生において、大叔母がいてくれたおかげで今の自分があり、やはり自分の人生、自分のものであるが、色々な関わってくれた人がいるからこそ自分の人生は成り立つため、自分の人生は自分だけのものではないと感じた。

 そして、その人と関わっている「生き様」から色々学んでいるはずが、その「死に様」によっていろいろ学んできたことを気付かされたと感じる。「死に様」に限らず、その関わってきた人との「分かれ」によって、人間は関りからの学びを再認識する生き物なのかとも考えさせられた。

 また、私は死んだら「無」であり何もないと思っている。しかし、私の脳は矛盾して、大叔母は半年ぐらい前に亡くなった私の祖母(亡くなった大叔母の妹)と、浄土で出会い、ゆっくりとしているとも思っている。

 現在に至る私たち人間の脳は「虚構(フィクション)」をつくるようにできているらしい。そして、その虚構を信じるようにも出来ている。

 改めて、人間の人生は浅くはないと感じた。そして、大叔母に限らず私の人生に関わってくれる人が私の人生を創ってくれる要因でもあると、改めて考えさせられた。

 私は他人のために生きようと思ったこともないし、今でも思っていない。ただ、祖母や大叔母の様に人の為に人生を歩むことは死んだ後も、ある意味自分の想いや学びを残せるものだと感じる。

 もしかしたら、想いや学びを残すことが出来るという事は、自分は死んで無になるとしても、自分の人生にとって最も有意義なことなのかもしれない・・・

夜の社

 

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