「専門家・・・あなたの知らない事にはやたら詳しくて、あなたの知っている事は何も知らない人の事」・・・アンブローズ・ビアス
「専門知識はそれだけでは断片に過ぎず不毛である。専門家のアウトプットは、他の専門科のアウトプットと統合されて成果となる。」・・・ピーター・ドラッカー
「専門」とは、その限られた分野のことであり、「専門家」はその限られた分野を追究する人である。殆どの人がそんな当たり前なことは知っている。しかし、「専門家」がどうあって欲しいか?もしくはどうあって欲しいかを考える人は意外に少ない。ただ、「その専門分野に詳しい」人であればいいとしか思わない人の方が多いと思う。
新型コロナウイルスの流行りだしてから、特に政府もメディアも、「専門家」が言うからという事を強調するようになった気がする。もちろんそれが悪いことというより、普通に考えたら正しいというのは分かるが、「専門家」の言いう通りにしないといけないという風潮が、コロナ下の世論を踏まえると、強くなっていると感じる。
以前「Go to travel」の政府キャンペーンが始まる前に、ニュースで「専門家によると、旅行をする人が増えれば感染が広まる恐れがあることを指摘しています」という報道があった。・・・そんなの素人でもわかる。「オミクロン株」が流行りだしたときには、「専門家の意見では、高齢者は重症化しやすい可能性が高い!」という報道もあったが、そんなことも誰でもわかる。
世論は専門家にそんな回答が欲しいのかと疑問に思ったり、何故ウイルスの専門家がその程度のことしか言えないのか考えさせられた。難しい事を言うと一般人は分からないからなのだろうか?等と・・・また、政府やメディアは専門家の意見を聞きたいのではなく、何かあった時に専門家のせいにしたいのではないかとも思う。
私自身は、新型コロナウイルスに関しては、パンデミックよりもインフォでミック(情報過多による誹謗中傷)の影響の方が多いと思う。そのインフォでミックの原因の1つは、ウイルスの専門家の意見が、専門性をもって素早く、且つ分かりやすく素人である国民に広がらなかったことがあると思う。
勿論原因はウイルスの専門家だけでなく、我々素人が、ウイルスというものを知ろうともせず、勝手に怖がり、感染した人を区別ではなく差別対象にしてしまったことも大きな原因である。
経済効果とエネルギー消費量が比例しているのを発見したのは「物理学者」であるというのを、何かの本で読んだことがある。素人の見解も大事である。また、私は以前、調理師として働いていたが、「調理程、素人が口を出す世界は無い」と思う。料理が出来ない素人も、味にはうるさい。ただ、その素人の意見を聞かないと、調理師としての専門的な発展は無い。
専門とは、各分野のスペシャリストであることは間違いないが、専門家であれば、その専門性を用いて、「出来ない理由」より「出来る工夫」を考えるべきだと思う。もちろんその専門分野にもよるとは思うが。言い換えれば、「制限」よりも「許容」に目を向け、「制限がある中でどこまで許容できるか?」を導く必要があると私は考えている。
例えば、コロナ下で人との接触を制限するという発想は簡単である。しかし、「どういう行動までならリスクが低いか?」等を考える必要がある。これは、他の専門科にも言える事である。例えば、私は高齢者施設で働いているので、高齢者で例をあげるが、例えば嚥下の悪い高齢者に誤嚥性リスクが高いから食事を出さないという事は結構あることなのだが、医師や看護師、言語聴覚士等の専門科が決める。問題は、その後、その高齢者に何なら食べて頂けるかを本気で考える施設は中々ないと思う。
また、年寄りが歩けなくなったら施設に入れて、自由を制限する代わりに安全をとるという発想も簡単である。糖尿病の人に、カロリーを制限するだけなら簡単である。どちらも高齢者の意向や生活の質を無視すれば・・・
私個人は専門家に必要なのは、制限よりも許容であると考えている。専門的にその人が「何をしていけない」ではなく、「どこまでならして良い」という事に着眼点を当て、導くものだと思う。上記の例で言えば、コロナ下でもどうすれば少しでもリスクが低く自由にしやすいか?
嚥下ができなくても、下の上に甘いチョコなどを塗るなどして、リスクが低いうえで味覚を楽しんでもらえないか?歩けなくても、環境を変えて車いすでもなんとかリスクが低く家で生活できないか?糖尿病でも週に1回くらいは甘いものを食べて頂き、リスクが低いうえで嗜好を満足させてあげられないか?等と言う発想である。
また、専門家でない素人に対しては、専門家は意見を言うが責任をとる立場ではない。何故なら、何をするにも「リスク」はつきものであり、可能性的なリスクの大なり小なりを専門家が判断して説明した時に、選択をするのは素人である。専門家の意見が必ずしも正しいとは限らないし、世の中100%大丈夫という事はない。専門家の意見を参考に、自分自身の決断により、その結果は自分自身が責任をとることだと思う。でないと、専門家は許容よりも制限を主張せざる負えないからだ。
もちろん、専門家が専門的に考慮して、出来ない事をあきらめるのも必要である。あきらめるの語源は「明らかに見る」である。専門的に明らかに見て無理なものは無理でよく、無理に許容を探す必要もないと思う。
ただ、世論が専門家のせいにして、無理と言って欲しいというイデオロギーが働いているようにも思える。専門家の意見を聞くことで、自分で考えなくていいようにという事に加え、何かあったら専門家のせいにしたいのだとも思う。それは、世論に専門性というよりも、主体性がない現象とも言える。私は、そのような世論や現象は如何なものかと疑問に思う。
そして、人間の中で個人個人の分野における専門家は、「自分」という存在である。「自分」とは、人間の人生における個々の専門的な存在と言っても過言ではない。その「自分」が「出来ない事(制限)」と「出来る事(許容)」に着眼点を考慮して、どう生きていくかで、言い換えれば「出来ない理由」と「出来る工夫」のどちらに着眼点を置けるかで、自分の人生が変わるはずである。
どちらが人生を下らなくも面白くするものなのかは、その人次第ではある。ただ、出来る事、出来る工夫、許容の範囲が広い方が、各分野の専門的な事や、自分という人間の自覚という専門分野において、人生を面白くするものだと思う。