「人間は自らの行動の中で、自らを定義する」・・・サルトル
「魂は自然と体に宿るもの。それがなければ、人生は無意味なものになる」・・・アリストテレス
実存主義は、「本質(目的)」よりも、「実存(物体)」が先立つという思想であり、「実存があるから本質ができる。」という考え方である。本質主義はもちろんこの逆である。
例えば、「包丁」は料理の材料を切るための刃物である。刀は人を切るための刃物である。ここで、「包丁」という刃物があるからこそ「料理の材料を切る」、「刀」という刃物があるからこそ「人を切る」という、そのもの「実存してるもの」があるから「料理の材料を切る」「人を切る」という目的が生まれるんだ!というのが実存主義である。
逆に、本質主義であれば「料理の材料を切る」という本質的な目的があるから「包丁」ができたんだ!「人を切る」という目的があるから刀ができたんだ!という発想になる。
ただ、包丁で人も切れるし、刀で料理の材料も切れる。となると、どちらが先立か考えると難しい。
哲学に限らずだが、人間は基本的に「白か黒」のように、2つに分けたがる。色は細かく言えば無限にあるが、きりがないので、解りやすく「白か黒」の両極端を好むのかもしれない。
また、「唯物論」と「唯心論」も同じような理論であり。「物があるから心ができる」「心があるから物を創る」のような議論は昔からされてきた。
本質とは、「そのものが、そのものであるための核」である。言い換えれば「存在した目的・存在となる根源・存在するための意味」等であり、3つとも意味は異なるが、本質と言える。
人間を例に挙げると、キリスト教等の一神教では、「人間は神が創ったもの」=「神が創ったから、何か意味(目的・根源)があるはずだ」∴「その意味(目的・根源)が人間だ」=「本質主義」のようになる。
実存主義から人間を考えると、「人間というものが存在する」=「人間は色々なことができる」∴「人間は人間らしい目的を果たす必要がある」=「実存主義」のようになる。
上記の様に私は双方を解釈している。
私自身は、「人間は人間に成っていく生き物である」と解釈しているので、その点で言えば「実存主義」であるが、「人間」を考えた時に、両方の思想が必要なのは確かだ。人間が存在しないとそもそも論「思想」が存在しないが、「人間の本質に沿った生活」言い換えれば「人生の本質」も人間には必要である。
「生物学的な人間」を「生きる」よりは、「人間らしい人間に成る人生」、所謂「自分の本質を創る人生」を送りたいとも考えているため、本質主義の考えも大事だという事である。
自分とは何か?人間とは何か?何故生きているのか?等が、私の哲学の始まりであるが、「自分」と「何」、「人間」と「何」、「何故」と「生きる」は、私にとってはセットなのである。以前はこの「何」や「何故」を単一的なものに当てはめようとしていた。「本質は普遍的な1つの核」と決めつけていたし、「実存も普遍的な存在(自分という存在は変わらない自分)」と思っていた。
しかし、この「何」・「何故」は複合的なものであり、変化するものであると今では考える。それは本質ではないとおそらく普通の哲学者は批判すると思う。ただ、変化自体は本質ではないにしろ、変化は必然である。であれば、人間の実存も本質も変化していくものである。言い換えれば、身体「実存」も精神「本質」も変化していくものであり、自分が自分という認識が変わらないだけである。
人間が創るものは、実存は本質に先立つと思う。例えば「サルトルのペーパーナイフ」の話は有名であるが、人間が「紙を切るもの(本質)」が欲しいと思い、「ペーパーナイフ(実存)」が創られた。人間は意図的にものを創るものであり、いらないものは作らない。所謂、脳化社会の産物であるからだ。だから、人間が創るものは本質が先立つのが当たり前である。しかし、これを人間に当てはめていけない。
友人や家族、恋人や職場仲間でもいいが、人間は他人に勝手に期待してしまう。言い換えれば、自分が「こうあって欲しい」という疑似的な本質を他人に求めることがある。他人に自分勝手な本質を創ってしまうわけである。
そして、その自分が押し付けている本質がが違った時、若しくは変わった時に「あの人はあんな人じゃなかった」「こういう人だとは思わなかった」等と思い、非難してしまうものだ。
実存主義でも本質主義でも、両方、考え方次第ではあるが、人生を善く生きるための考慮材料として、どう考えた方が善いかを考え、使い分けた方が、面白いものだと思う。