哲学ブログ

理論と感情~本質~

「哲学の仕事の本質は解明することにある。哲学の成果は【哲学的命題】ではない。諸命題の明確化である。」・・・ルートヴィヒ ウィトゲンシュタイン

 現代では、「感情的な思考よりも理論的な思考の方が勝る」、という考え方の方がマジョリティ(多数派)である。例えば論破という言葉があるが、論破とは思考を理論的に言葉で表現し、相手を理論的に破ることである。頭の中でロジックを組んで理論的に表現することが、現代では正しい風潮にある。

 まさしく「1+1=2」という思想である。言い換えれば「ああすればこうなる」という人工的思想が理論である。もちろん理論的思考自体が悪いわけではない。むしろ、人間である以上、人工的な考え方でる理論的思考が理解できないと、中々生きにくいと思う。ただ、人工的と人間的を同一と考えると、それはまた違う。

 人工的とは、人間が「ああすればこうなる」と理論的に考える事である。しかし、人間的というのは、感情が入ってくる。「ああすればこうなるが、そうしたくない」等、感情は理論的な事を否定するくらい中々制御しにくいものである。

 少し歴史をさかのぼれば、中世時代までくらいは理論や感情より、武力や体力という身体能力的なフィジカルな面が重視されていた。生きるために必要な条件がフィジカル的なものだったという単純な理由ではある。しかし、それが優位に生きていくうえでの絶対条件に等しかった。

 それから産業革命がおこり、フィジカル的な要素より工業や科学という理論的な思考、言い換えれば知的能力が重視され、理論が重視されるようになる。もちろん、私たちの生活をっさ得ている機械・技術は「理論の賜物」である。それ故、20世紀は「理論の時代」と呼ばれることもある。

 ただ、ここで私は疑問に思う。なぜ産業革命前はフィジカルが優先で、それ以降は理論的思考が優先されたのか?という疑問に関しての答えは、「人間が幸せに生きるため」という回答にたどり着くための手法が時代によって、フィジカルであったり理論であったりというだけであり、その根本的な原理は「人間が幸せになる」という感情に起因するかもしれない?という事である。

 私は、正しい理論で物事を解決できるほど、人間は浅くはないと考えている。飲酒や喫煙は体に悪いのは分かっていても、してしまう人はする。医師から塩分を控えるようにと言われても、インスタントラーメンを食べてしまう。働かないといけないとわかっていてもニートは存在する。痩せたいと思っても、甘いものなど食べてしまう人はいる。という具合に、人間の脳は意外に理論的ではないと私は思う。

 何が言いたいかというと、人間は理論的な面で進化してきた面もあるが、基本的には自然的な存在でもあるという事である。そこには、理論だけではなく感情論も理論と同じくらい大事なものである。簡単に言うと「人間も感情的な生き物」であるという事だ。

 人間の感情も考慮しながら理論的な思考も持たないと、人間は納得できないという事だ。理論的な思考を持っていても、感情に左右されることがありうる。そして逆に、理論的思考により感情が左右されることもありうる。卵が先か鶏が先か?と同じように、理論が先か感情が先か?は中々分からない。

 しかし、人間の思考には理論も感情も含まれている。であれば、どちらが正しいとか間違っているではなく、理論も感情も同じぐらい考慮するべきものである。理論も感情も、人間が生きていく上での「絶対条件」に過ぎない。絶対的に持っているからだ。

 だからこそ、唯物論や唯心論の様に、「物が先か心が先か?」という事ではなく。人工的=理論、人間的=感情という、人間はどちらも相反するような本質を持っている生き物なのだ。

 理論的な事が正しいと思う人間や、感情的になりすぎるという人間は、ある意味双方正しく、双方間違っていると思えるという認識ができる方が、色々と面白く生き易い・・・

yes and noのダブルスタンダード
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