哲学ブログ

ニヒリズム~虚無or創造~

「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」・・・フリードリヒ・ニーチェ・・・

 「脳化社会」の根本かもしれない。ニヒリズムは虚無主義と訳され、簡単に言えば、「すべてのものは、意味や価値など存在しない。」という考えである。仏教用語で言えば「諸行無常」や「色即是空」が近い考えである。「この世のものは確実なものは存在しない。」という共通概念を持つ。

 しかし、この2つの言葉はニヒリズムに近い共通概念はあるが、仏教は「悟りによる導き」により、「因果」や「縁起」という概念が根本にあり、ある意味、意味を持つ。しかし、ニヒリズム(虚無主義)の哲学に関しては、個人個人がその「すべてにおいて意味や価値がないもの」に「意味や価値」を見出さなければならない。


 昔は「生きる理由」を神に委ねており、「神が人間を作った」=「神が人間に生きることを許した」∴「人間は生きている」という考えでもあった。「神は死んだ」と言うニーチェの言葉があるが、この言葉は「人間の生きる意味・価値を神に委ねるのではなく、人間自ら見出さなければならない」という、メタメッセージが含まれている。この「神」という言葉は、現代では、ある意味「自分以外の人間。」と置き換えられるのではないかとも考えられる。


 「虚無」=「虚しい」 +「何も無い」=「すべてにおいて本質は、もともと何も無く、虚しい事」ということである。しかし、人間はすべての事において「価値」や「意味」を見出そうとし、そこから生まれた哲学は「本質(真理)」を探る学問である。ニヒリズム(虚無主義)と一見相反するように思うが、私自身はこの、ニヒリズムから哲学はさらに進化した側面があると考える。


 私自身も「ニヒリスト(ニヒリズム主義者)」に近い。ただ、「すべてのものは、意味や価値など存在しない」という本質に基づいてはいるが、「ペシミズム(悲観主義)」というわけでもない。存在自体が「意味」を成すのではなく、その存在に「意味」を作るのが、「人間」と認識している。言い換えれば、解釈が真理を作っている側面があるという事だ。


 ただ、私の哲学のきっかけは「ペシミズム(悲観主義)」であると思う。自分の「存在価値」を疑い始め、「生きる意味」を考え、「生きる事」は「人に迷惑をかける事」と考えていたこともある。若いときは「人生は~だ」と「~」という1つの理由でくくりたがり、「人生は複合的なもの」という認識に至らなかった。

 生きていれば必ず誰かに迷惑をかけるのも一つの真理であり、これを細かく言えばきりがないが、生きている以上迷惑をかける存在ならば、人からの迷惑を受け入れられる人間に成ろうと考えられるようになった。(実際は難しいが・・・)


  また、ニヒリズム(虚無主義)に疑問を感じることもある。「すべてのものは、意味や価値など存在しない。」は万物に当てはまる根本原理ではあるが、例えば「友人」・「家族」・「好きな人」・「仲間」・・・ETCに関して、私は「価値」を感じてしまう。私はそこに「意味」を求めないので、少しニヒリズムの批判にずれるかもしれないが、そこに理由はいらず、ただ「価値」は感じるのだ。言い換えれば「自分の人生に必要な存在」とは、打算なく感じるという事である。ただ、自分自身には感じられないから、人生に疑問を持ち、今も疑問を持ち続けている。


 人生の長さや太さ、密度も人それぞれであり、「長いから善い」、「太いから善い」、「濃いから善い」とは一概に言えない。ただ、「意味がない」いう事は、「意味を創れる」という事にも置き換えられる。「生」と「死」は対義語あるが、「生」が始まった瞬間に「死」のカウントダウンも始まるのは絶対条件である。その中で、「生きる1歩を歩む」人と「死にゆく1歩を歩む」人では、人生における「意味」は大分変わる


 自分の人生、私に関わる人にだけでも「生きる一歩を歩む」人生を送れるように、努力していきたいと思う。多分、それが私の「哲学」の目的であり、「自分なりの人生の価値」なのだとも思う。

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yu-sinkai

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