哲学ブログ

変えていくべきことと、変えるべきでない事~時代や風潮~

 「我々は伝統の中に生きている。しかし、それは批判的でなければならない。」・・・アルベルト・アインシュタイン

 「そもそも帝国海軍のこんにちあるは、肉迫必中の伝統精神にある。今後、1メートルたりとも社距離を延ばそうとすることは絶対に許さん。」・・・山本五十六

 「諸行無常」・「盛者必衰」・「隔世之感」・「金是昨非」・「万物流転」・・・ETC

 すべてのものは変化していくというのは、私の中では「人生の定義の1つ」と言っても過言ではない。昨日と今日、明日の自分は同じ自分でありながら、考え方や体調、気分や身体的変化は確実にある。意識という物の特性で、「昨日の自分は今日の自分と同じ」と思うが、確実に微々たることでも変化している。

 しかし、そんな私自身の考えの中でも、自分の考え(意識)の中でも「変えていくべき事と、変えるべきではない事」というものがある。そこには勿論、「常に物事は変化する」という私自身の思想の中では、矛盾しているところでもあるが、学びの根本であったり、考慮の基礎的なところ、個人個人の核的な思想は、変わらないと思う事もある。

 どちらかというと、「変わらない」というより「変えたくない」・「変えるべきではない」という想いより、自分自身の核というか考慮の基礎的なものができているのだと思う。そう考えると、もちろん自分のその核や、考慮の基礎的なところが「間違っている」・「変えた方がいい」と思えば変わるかもしれない。

 変化が目的ではなく、改善が目的であるため、変化は手段だとも思う。もちろん「諸行無常」のような世の中のことは少し別としてだが・・・

 人間社会(人間に限らずかもしれないが)も常に変化しているが、人間社会は常に変化自体を目指しているように感じる時がある。例えば、選挙戦の際に政治家が「変えます!」・「変えましょう!」等という事が多いが、「改善します」とはあまり聞かない気がする。

 また、職場等でも「変えないといけない!」とは言うものの「改善しなければいけない!」という言葉の方が少ない。これはもちろん私の職場だけかもしれないが・・・ただ、私個人が思うに「変化」=「改善」と思っている人が多いような気がする。

 「変化」自体が目的になっているのであれば、それは些かマイナス要因になると私は思う。何故なら、良い習慣や良い伝統等も変化が目的で変えた場合に、変化した際に悪い習慣や悪い伝統になる可能性が高いからだ。

 伝統とは何か?と問われたら、私の回答は「伝え受け継ぐべきもの」と答える。その意味の中には「伝える意味がない」・「伝えることがマイナス要因である」と判断したら、「伝え受け継ぐべきものではない」という意味合いが含まれる。伝統は「受け継ぐ」ものであって「受け継がれる」ものではないと私は考えている。

 それは、言い換えれば「変化しない方が善い(改善しない方が善い)」と「変化した方が善い(改善した方が善い)」の基準で伝統を「受け継ぐべき」か「受け継がないべきか」を問うことになる。簡単に言えば、私の中で伝統とは受け継ぐ価値があれば受け継ぐべきものという解釈である。

 なので、受け継ぐべきものではないものは変えるべきだと考えている。これは伝統に限らず、様々な手段や方法、決まり事に対しても同じである。「今までこうだったから」・「昔からこういうやり方だから」等という理由で、その物事を行う事はよくあることである。しかし、「今まで」や「昔から」が正しいとは限らない。

 「今まで」や「昔から」が吟味して正しければ良いが、効率が悪かったり理に反している事であれば変えるべきである。

 しかし、人間は意識の性質のせいなのか「変化を嫌がる」傾向にある。生物的本能のせいなのかもしれない。変化するという事は大変な労力を使うので、目に見えた「利」がなければ基本的には歓迎されないものである。自分が苦労せず自分に得となるような変化は別として。

 その中でも「変えない方が善いもの」もあるはずである。私は考えが古いかもしれないが、例えば「仁義礼智」の教えや、「年功序列(能力に関しての出世などは別にして)」、「根性論(ある程度まで)」等、ある程度は大事なことであると思う。

 この3つの例えの考え方は古いと思う人も多いとは思うが、やはり人間は「義理人情」・「礼をもって対応する。」等の心の作法は自分の自尊心を保つことや他人を気持ちよくさせることでその集団にもいい影響を与える。

 「年齢が上なだけで偉い」という考えは、私自身も間違っていると思う。しかし、人生を創るというのは浅いものではなく、それぞれ十人十色の苦労の上に成り立っている面もあり、また、人生という経験則は年を取っている方が持っており、ある程度敬う気持ちは大事に思う。もちろん、その個人にもより、到底敬えない人もいると思う。

 根性論も、やはりある程度は必要に思う。例えばスポーツで早く走るための技術を学んだとしても、早く走るためには単純に「走り込み」が必要である。いくら仕事でマニュアルがあっても、マニュアルを完ぺきにこなすことや、マニュアル外(想定外)のことに対応するには根性が必要である。

 また、体罰に関しても疑問に思う。いう事を子供が効かない時に、ゲンコツやデコピン等は特に問題ないと思う。体罰は口で言っても聞かない事に対しての罰である。暴力ではない。体罰は行き過ぎると暴力になると思う。であれば、いけないのは「暴力」であって「体罰」ではない。

 私自身は古い考えの人間なのかもしれない。ただ、先達から教わってきた物を時代やその風潮によって変えるのは些かどうかとも思うし、吟味もせず変えないのもどうかと思う。必要なものは残し、改善が必要なものは改善する意識と理性を持った方が、多少なり人生が面白くなる気がする。

時代を生きるのイメージ

 

 

 

  • この記事を書いた人

yu-sinkai

-哲学ブログ