最近、「自我と無我」とは何か?という疑問が頭によぎっており、丁度「自我と無我」という「岡野守也」という方の本を読んでいて、ジャン・ピアジェの認知発達段階論をもとにケン・ウィルバーが「自我と無我」を整理していた内容が紹介され、「なるほど!」と思ったので。少しご紹介したい。
ピアジェの認知発達段階論とは、子供は4つの発達段階あるがあり、それぞれの段階で子供の発達がどういう者であるかを論じている。
①感覚・運動期(0歳~2歳)
②前操作期(2歳~7歳)
③具体的操作期(7歳~11歳)
④形式的操作期(11歳~)
がビアジェの4つの提唱する発達段階である。これをもとに、ウィルバーは「自我と無我」について考察したのである。
まず、人間が赤ちゃんの時である心の発達の第一段階である「感覚・運動期」は、簡単に言うと「自分と他者の区別がつくようになるまで」の期間である。
赤ちゃんはまだ自我がなく、感覚と運動だけの状態にある。自我と世界が混同している状態でもある。生まれてから1年程手を動かしたり、足を動かしたりして、色々試しながら自分と外の世界を感じていくのである。指をかむと痛いが、毛布を噛んでもいたくない。泣けば母親が来て母乳がもらえる等、様々な事が分かるようになる。
そして、泣いても母親が来なかったり母乳がすぐにはもらえない時もある。そこで、自分と母親は違う存在なのだということを学んでいくらしい。「感覚・運動期」は自分・他者・物理的な世界を学んでいく段階である。
次の「前操作期」は「物事をコントロールする思考が身につく」期間である。
自我の形成段階と言ってもよさそうである。母親と自分が違う事が分かれば、他者と自分は違う事も分かる。そこで私は「○○ちゃん」と呼ばれており、自分の名前に気付くようになる。ただ、他者との違いは区別できるようになるが、自分と外界の区別はあまりできていない状態でもある。自分と外界が混同していると考えている時期でもある。
例えば、「自分が歩くと太陽や月がついてくる」・「自分が悲しいと思っているから雨が降る」等、自分に都合の良い外界の在り方を位置づけるのである。この段階の子供は、自分と外界が直接つながっている(ある意味思い通りになる)と考えていることから、「エゴ中心的な思考」の段階位置づけることができる。また、この段階を言い換えるなら「呪術的段階」とも言い換えられるらしい。
子供が転んだ時等に「痛いの痛いの飛んでいけ!」と、患部をさすりながら言うと、泣き止む傾向がある。これが「呪術的」と言われる所以である。
その次の「具体的操作期」は、頭の中で具体的に情報処理を行い「他者の視点を推測できる」期間である。
この段階では、次第にそれぞれ区別・差異された世界が分かるようになり、自分だけでなく他人の視点や役割を理解したり、他人の心を理解できるようになってくる。この年齢の子供が、他人の視点が理解できることを示す実験がある。
3色の粘土の山と人形を子供に与え、遊ばせる。そこで、「君には何色のお山が見える?お人形さんには何色の山が見えているかな?」と聞くと、前操作期の子供は自分が見ている山を答える。例えば自分が赤色の山を見ていれば「赤いお山を見ている。」と答える。しかし、具体的操作期の子供は「自分は赤い山を見ているけど、お人形さんは緑のお山を見ている。」と答える。
自分と人の見える世界が違うということを理解し、他者の視点に立って物事を推測する能力がついてきているのでる。以前の段階では、「自己(エゴ)中心的」であったのが、「社会中心的・役割中心的」になってきているということである。
そして、最後の「形式的操作期」は自我の確率はするものの、「自己中心性の克服」もする時期である。
ある実験で、5つのグラスの中にそれぞれ無職の色の液体を入れ、「これらのどれかを3つ組み合わせると黄色になる」と言って子供に見せる。そして子供に黄色になる液体を作らせると、この段階の子供たちは5つのグラスで出来る組み合わせをどれくらいあるか考えて、それを最後まで実験するようである。
このように、ありうるすべての形式を頭の中で想定し、操作することができるように成る段階である。ここまでくると「このケースとこのケースがあり、このケースではこうなるがこっちのケースではこうなる」とありとあらゆるケースについて考えることができるようになる。
ウィルバーはこの発達段階を学んだ時に、「自我と無我」に関して面白い視点を持った。【「感覚・運動期」~「形式的操作期」を考えた時に、「自我から無我」に向かって進化している】という視点である。
赤ちゃんや幼児期は自我を確立するために時期であり、「自己(エゴ)中心的」である。そして、具体的操作期から形式的操作期で自我を確立していくにつれて自分中心の世界を克服していき、自分から消えり放された世界を認識し、他者の立場を考えるようになる。
「自我か確立されればされるほど、自我中心的な存在から解放されていく」ということである。
ウィルバーは「無我」という言葉は使っていないらしいが、人間は「自我が確立する」ことによって、かなりの程度、「自己中心性から解放される」という言い方をしている。
発達段階にける自我の確立はある種「無我のきっかけ」になるものなのかもしれない。「自我よりも他者を考慮するようになる」からだ。それは、宗教的力を用いる「滅私奉公」とはまた違ったベクトルである。
そして、大人になるにつれて人によっては「他者を考慮するより自我を貫く」人が何故か多くなる気がする。ただの気のせいか、私の周りだけかもしれないが・・・
本来、自我が確立すればするほど他者を想い、また「無我の境地」にたどり着くのかもしれない。その考えを持てる方が、人生を面白く生きれる気がする。