「足るを知る者は富む。」・・・孟子
「もうこれで満足だという時は、即ち衰えるときである。」・・・渋沢栄一
孟子・・・有名な儒家である。孟子の思想で有名なものの1つに「易姓革命論」がある。ざっくり簡単に言うと「天命を大事にする」ということである。
孟子は人間の本質は「善」であるという「性善説」を説いた人間でもある。
人間にはそれぞれ天命(神から与えられた命令)があり、「その天命自体に満足しないといけない」というような思想があったからこそ自分の人生を「足る」≒「満足」するべきであるというような考えがあったかもしれない。
私自身も「足るを知る者は富む」という言葉はある種、人生における「真理」であると考えている。私なりに言い方を分かりやすく変えるとしたら、「足るを知るは富む」≒「幸せだと思えば幸せである」というようなことである。
よくたとえ話で出てくるような例であるが、デザートにケーキが2切れ出てきたとする。1人は「たったこれだけ?」と不満を言い、もう1人は「こんなに食べれるの?」と満足を言う。
では、「たったこれだけ?」と思う者と「こんなに食べられるの?」と思う両者に対して、どちらが幸せだろうか・・・どう考えても後者である。
自分の現状に満足することは容易ではない。しかし、「人間が満足するものとは?」と考えたときに、もちろん「食欲、性欲、睡眠欲」等の本能が満たされたときなどと思われがちだが、それは一時の満足である。
「人間が満足する」現象は、その個人が「満足した」と思える思想のことであり、それが言い換えれば「足るを知る者は富む」となるわけである。
2チャンネル創設者の「ひろゆき氏」はYouTubeで時折、「哲学の必要性」について語ることがある。内容的には
「日本は不景気がこれから続く・・・お金がないと幸せな人生と考えるより、お金がなくても幸せだと思える人生のほうが大事である」のような、幸せということを感じるために、不景気では幸せの思想がが役に立つらしい。
また、これはある漫画の話だが、東南アジアの国境にある政府軍とゲリラ軍が戦場にしたところの村の話で、そこは村を外れると何万もの地雷があるような地域であり、その村の村長は片目がなく、左の手足がない人である。
しかも、その村は何度も戦場になったことがある。しかし、その村に住んでいる住民はみんな笑顔で幸せそうである。そこで、その村に行った日本人が「こんな状況で生きているのに何で幸せそうなんですか?」と村長に問いた。すると村長は・・・
「生きている・・・それがここの1番の贅沢です。みんな、みんな、死んでいった。友達、親、子供、兄弟、みんな戦争で命を失った。その中で生きることそのものが幸せ」
と答える。極論ではあるが、「生きているだけで丸儲け」というような心境になれば、人生はある程度の環境であっても幸せなのかもしれない。そして、自分の人生が「足りている(満ち足りている)」と思えれば、どんな環境であれ幸せになる。
「失われた30年」と日本は言われるような国であり、令和に入ってもおそらく貧困の格差は広がっていくと思う。ただ、日本は皆保険制度という世界でも有能な制度を持っており、生きるためのお金が本当になければ「生活保護」も手厚い。
「清貧」という言葉があり、キリスト教やその他の宗教や政治でもこの言葉は使われてきた。いわゆる「清く貧しく」みたいな事である。「貧しい」≒「清い」≒「正しい」みたいな解釈である。宗教家や政治家にとっては、この考えが根付けば、非常にコントロールしやすい。
何故なら・・・民に貧しい暮らしをさせながら民は満足し、上層部は税金等を取りやすいからである。
ただ、私自身の「清貧」の解釈するのであれば、「貧困が清い」という考え方ではない。「貧困でも清い」ということが「清貧」ということである。この解釈であれば、「清貧」≒「足るを知る」となる。
私が生まれ育った鹿児島県南さつま市では、島津日新公という人物が作った「いろは歌」というものがある。「いろは歌」は「いろはにほへと ちるぬるをわか・・・」とその「いろは順の文字」を頭文字にして武将の在り方を現した短歌であり、当時は「薩摩の論語」と言われていた。その中の歌で「ろ」の文字から始まる歌なのだが、
「楼の上も はにうの小屋に住む人の 心にこそ たかきいやしき」
という歌である。訳すと「楼の上(2階建≒立派な家)に住む人もはにうの小屋(みすぼらしい小屋)に住む人も、その住んでいる建物でその人の値打ちが決まっているわけではなく、その住んでいる人の心が尊いか卑しいで人の値打ちが決まるものだ」みたいな意味である。
どんなに贅沢しようが卑しい人は愚痴を言い「足ることを知れない」。尊い人は貧乏(ある程度の)でも心を豊かにして、生活環境にも満足し、「足るを知る」ことができる。
もちろん、
「衣食足りて礼節を知る」
という言葉があるように、生きることが困難な貧乏では「足るを知ること」どころではない。しかし、おそらく殆どの人間は生きることには困らない。であれば、「足るを知ること」が本来できるはずであり、この思想は人間を幸せにする心理的な思想である。
しかし、私自身「足るを知る」が大事だと思う反面、「足らないを知らないといけない」と思うこともある。
例えば自分自身のスキルであったり、改善したい環境等に関しては、自分が考えている「足るスキルや環境」に近づくようにしていかないといけないと考えている。言い換えれば「向上心」や「自己実現」というようなことである。
以前「性弱説」という記事を書いたが、基本的には人間は「楽をしたい生き物」であり、「現在おかれている良い環境に愚痴を言うが、自分の在り方や、不満がある環境でも変えようとしない人が多い。」
現状に満足してなく、不満だけはある状態である。そこで愚痴だけ言い行動に移せない人は残念だと思うが、その満足していない現状を打破するために行動する人はある意味、自分の現状に対して「足るを知らない」ということが行動原理となる。その不満を改善できる原動力になりえるわけである。
人間が農業革命や産業革命を起こしたのも、その現状に満足することができず(足ることを知らず)努力した結果である。
であれば、「足るを知る」が大事である反面「足るを知らない」方が大事という場合もあるわけだ。この2つをカテゴリ‐に分けるのであれば、前者は「自分の努力ではどうしようもないこと」、後者は「自分の努力でもなんとかなるかもしれないこと」である。
冒頭の名言を言った孟子も「足るを知る」と説いているが、中国を回りながら儒教を広めていった。世の中が良くなるように、自分の教えを生涯弟子に伝えて回った。当時の中国の政治をよしと思わず、自分にできることを考え、教えを説いていたのである。
とどのつまり、自分の置かれている立場や環境等に行動に移すこともなく、ただ不平不満を言うような「足りない」と思う人間は「足るを知る」と「富む」はずである。
しかし、自分の目標のための向上心や自己実現に向かい努力をする人間は、「足らない」と考えるほうが富むのである。
ただ、人間に限らず生物は老いていくものである。年を取り、衰えたときに向上心や自己実現のために頑張ってきた人間は、最終的には「足るを知る」という様になるはずである。何故なら、自分の人生を「やり切った」と思える自己肯定感を得られるからである。
「足るを知る」ことを学び、向上心や自己実現のために「足るを知らない」を学び行動し、最終的にはすべてにおいて「足るを知る」という人生を送れれば、それは本当に「富んだ」人生であり、面白い人生を送れるはずである。