「悩みによってはじめて知恵は生まれる。悩みがないところに知恵は生まれない」・・・アイスキュロス
「悩みはあって当たり前。それは生きている証拠」・・・松下幸之助
悩みとは、考えてしまうことが前提で起きる事である。もちろん人間に限らず生き物全般は少なからず生きるために悩むものである。ただ、生きることが複雑化した人間ほど、様々なことに関して悩む生物はいない。
例えば、ある部屋に雀や燕などの鳥が迷い込んだら、彼らは壁にあたりながら出口を探す。その部屋から出るために悩みながらとる行動である。アリなどの虫も、行く手を阻めば、そこをどう切り抜けるか悩みながら行動する。悩むことは人間の専売特許ではないというわけである。
悩みとは、脳が勝手に作用する仕組みと言っても過言ではない。心臓を動かすのに、自分の意思とは関係なく、生きるために心臓は勝手に動く。そういう現象を「自動能」というが、脳が悩んでしまうのも、この「自動能」と同じ仕組みだと私は思う。その目的は「生きる」為である。
生物全般、本能的に生きるために「悩む瞬間」はあると思う。しかし、人間とその他の生物において「悩む幅」は断然違うのもまた真理である。人間は、身体機能以上に脳機能を進化させてきたが故に、悩む幅もまた広がった。
人間が、コミュニケーション能力を他の動物より大事にするのは、人間は集団でしか生きていけないため、おのずと必要になった能力であり、他にも道具を使うからこそ、その道具を進化させることにも悩んできた。また、血筋など「身分」等の制度をつくる過程などからでも、生きるために様々な掟や制度を作るために悩んできた。
その様なことから考えて、ある意味、私たちの先祖は様々な幅広い「悩む」という行為を繰り返してきたため、人間としての進化を遂げてきた一面がある。ただ、現代と違うのは、昔は純粋に「生きる」という目的のために悩むという「自動能」が、現代では幅広くなりすぎて、悩まなくてもいい事までも悩むのが当たり前になったことである。
「何故、自分はこんなに悩んでいるのだろう?」という自問自答をしたことがある人は、9割くらいはいるのではないかと思う。心臓が血液を全身に送り出す機能があるように、脳は考える機能があり、それは「自動能」のため、自分ではオン・オフが出来ない。ただ、心臓は身体、脳は精神、などの様に思っているため、「何故考えすぎてしまうのか?」とも思ってしまう。
現代では、人工が創った世界が当たり前であり、人間は「自然の生き物」ではなく、「人工の産物」という誤解が常識になっているようなパラダイムを私は感じてしまう。もちろん、私も人工の創った世界、言い換えれば便利な世界を否定しているわけではない。ただ、疑問はある。
生物は生きるために進化してきた。人間も同様である。ただ、生きるための武器として脳を使ってきて、ある意味生物の頂点に立ったと言っても過言ではない。ただ、その為、身体と精神を切り離し過ぎている気がする。だからこそ、心臓が血液を送る機能は当たり前で「自動能」だと解かっていても、脳が考えてしまう機能は「自動能」ではなく、自分の意思のせいだと思ってしまう。
脳は確かに100憶の細胞があり、そのつながりの数は兆という単位をも超える。コンピューターより断然複雑である。しかし、自然の産物であることもまた真理である。だからこそ、自制心が効かず、考えたくなくても考えてしまい、本来どうでもいい事でも悩んでしまうものである。
私自身も色々と悩みはある。人間社会位で生きていく上では、「悩み」というものは尽きない。人間は「生きる」だけでは満足できない生き物であるが故に、悩みも尽きない生き物である。
ただ、生きるため以上に悩んでしまう人間の脳は、ある種自己制御できない「自動能」が元々備わっていると認識できていた方が、幾ばくか面白く生きやすくはなるのではないか・・・