「何かをするより、何もしない方が辛い」・・・ジョージ・ハーバード
「Action is eloquence(行動は、雄弁である)」・・・ウィルアム・シェイクスピア
人は行動する際に、必ず「目的」がある。という「目的論」と、必ず「原因」があるという「原因論」というある種の「2項対立」の議論が、昔からされてきた。人間の行動に「目的」が先か「原因」が先かとの、「卵が先か鶏が先か」のようなことにも思えなくはない。
この2つの「論」を例えてみる。ある青年が、最初に好きな人にフラれたとしよう。そして次に好きな人が出来た時に、「告白できない」とウジウジ悩んでるとする。なぜ告白できないか?という問いに関して、「目的論」であれば、「フラれたくないから告白できない」という、「フラれたくない」という「目的」のために、告白しないという行動に出る。
「原因論」であれば、「フラれたことがあるから告白しない」という「過去にフラれたから」という「原因」のせいで告白しないという行動に出る。簡単に言えば「フラれたくないから告白しない」と「フラれたことがあるから告白しない」という解釈である。
複雑な事例をあげればもっと深い話になるが、色恋沙汰はシンプルでわかりやすい。分かりやすい反面、どっちも同じようなことに感じる人も多いと思う。ただ、「告白しない」という行動は同じであっても、「目的論」は未来に起因した考えであり、「原因論」は過去に起因している。未来は自分で創っていける面を持ってはいるが、過去は消えない。
人がなぜ行動をするかというときに、「目的」も「原因」もあるが、大雑把な言い方をすれば「感情」が大きく起因すると思う。養老孟子氏著の「バカの壁」の話だったと思うが、
「行動(脳からの出力)=(y)」,「情報(脳への入力)=(x)」、「感情(行動に至る脳の作用)=(a)」としたときに、y=axという式が成り立つという話があった。
行動を2次関数に置き換えた式である。「行動=感情×情報」という事である。言い換えれば、感情が0、情報が0というとき行動も0となり、行動出来ないということである。感情がマイナスであれば、得た情報もマイナスになる。この「情報(脳への入力)」というのは、なにも「知識」だけに限らず、五感で感じたことも含まれる。
「さらにそこから生まれるもののなき博学はくだらない。知識のコレクションに過ぎない」・・・志賀直哉
私も同感である。知識量が多い人がすごいわけではない。おそらく殆どの人の周りには、「頭は良いけど・・・」みたいな人はいると思う。博識だが何もしない人はいる。それは、その人の行動に問題があるからだ。上記のy=aXのX(情報)の量はすごいのだがa(感情)が0の為、y(行動)に移れないのだ。
また、「嫌な事だから、関心がない!」と言う人がいるが、関心がなければ好きも嫌いもないはずである。どうでもいいからこそ関心がないのである。
自分を例えにすると、一時期自分のことがものすごく嫌いな時期があった。今考えると、その時ほど自分を考えたことがないと思う。「自分が嫌いだ」という事を常に考えており、言い換えれば、自分の事ばかりを考えていた気がする。
色恋沙汰でも「最初は嫌いだった異性が、後から好きになる」と言う話は、ちょくちょく聞く。しかし、「最初から興味のない人は、後からも興味もない」という事はそれ以上にあり、嫌いは嫌いでそれはそれである種行動に出るが無関心なものに人は行動を起こさないものである。
ただ、「知識」は「知恵」の行動源でもある。私の知り合いに、「知識を得たら知恵を出せ、知恵が出たら、汗をかけ」という人がいる。上記のy=axで言えばy「汗(行動)=ax(知恵×知識と考え))」という式である。
知識に感情と言う恵みを与えて初めて知恵となり、行動となるのかもしれない。
知識と感情を上手くミックスさせて、自分が納得できる行動をとっていければ、それはそれで人生を面白くできると考えている。