哲学ブログ

都会と田舎~自然~

「汝を生んだのは都会だ 都会が離れられると思ふか 人間は人間の為した事を尊重しろ 自然よりも人口に意味ある事を知れ。」・・・高村光太郎


「まずは都会に住む人に尋ねたい。あなたは地方の村でつくられているものを、いっさい使わず、いっさい食べずに暮らすことができるのか?」・・・マハトマ・ガンジー


 都会と田舎・・・昔から不思議に思うが、対義語ではあるからなのか、都会と田舎はなぜか張り合うというか、対立しているように感じる。特に都会は田舎を馬鹿にする風潮が昔からある。 


 飛鳥時代から奈良時代にかけて平城京などの大都市ができるようになり、貴族層が中心に住む都市を所謂、都会と呼ぶようになり、それ以外を田舎と呼ぶようになったことや、鎌倉時代には、重要な地域以外はすべて田舎という考えであったらしい。都市化が進み、都市という概念ができたことにより田舎という概念も出来たらしい。


 人間は古今東西問わず差別してきた動物である。江戸時代までは士農工商の身分制度があり、昭和中旬くらいまでは「平民・士族」と身分があり、そのころまぐらいまでは部落差別もあった。


 だからこそ、都会が田舎を馬鹿にする風習があり、そして田舎は馬鹿にされまいと都会を罵るようになったのも理解はできる。しかし、それが時代錯誤に感じるのは私だけなのか?と思う。昔と違い、今は身分制度がない時代であり、都会と田舎は、ただ人数の大なり小なりで、そういう風になったに過ぎない。


 「都会は便利」とよく言われているが、些か疑問に思う。私も東京に住んでいたことがあるので、言いたいことは分かる。買い物がしやすい、遊ぶところが多い、何処に行くにも電車ですぐに行ける等である。都市化という現象は、所謂、人間の脳化を具現化した町であり、そこは人間にとってのみ必要な物を凝縮している町である。しかし、それでも不便である。


 田舎の人の出勤はほとんどがマイカー出勤である。通勤に、1時間満員電車が当たり前の都会が便利なのか?また、都会の人は、電車以外が殆ど徒歩であり、30分ぐらいの徒歩は当たり前だ。田舎はほとんどが車であり、ウォーキングをする人は多いが、目的地に徒歩で5分以上かかるところは、まず車で行く。ネット通販が当たり前になった今では、田舎でも欲しいものは取り寄せがすぐにできる。


 私は都会を否定しているわけではない。一概に都会の方が便利という概念は違うのではないか?と説いているだけである。田舎は車の運転をしないといけないため、簡単に昼からお酒が飲めない。私にとっては致命的な事であり、そこは都会が便利だと思う。また、車がない移動弱者と言われる人たちには、圧倒的に都会が便利である。就職に関しても、仕事の種類は田舎とは断然違い、都会の方が就職はしやすいし、賃金もいい。


 また、「都会は格好良い」、「田舎はダサい」という極端な概念を持っている人は少なくない。若いときは私もそうだった気がする。人間の人工的魅力は、人工的な街の方が磨きやすいのだと思う。しかし、そこは少し批判すると、自然になれていない都会の男が、虫がいるだけで騒ぐのは、些か男らしくないとも感じる。


 私は田舎者だが、都会も好きである。そして、どちらもあまり変わらないと感じる。人間の集まる人数で、自然的にそうなった!というだけの話である。要するに、人間が「生きる」ために、その人数に応じて適応した町になっただけであり、「生きるため」の本質は、都会も田舎も変わらない気がする。


 私は、都会にも自然を感じる。それは人工的な自然であるが、高層ビルや人込み、交通機関の利便性は、おそらくどの世界の都会も、基本的には同じであり、そこに人間的自然を感じる。もちろん田舎の自然も、自然的な自然を感じる。


 「都会は、人工的自然」、「田舎は自然的な自然」と感じると、どちらの自然でもそれらに満足できるので、少しは人生が面白くなる。

田舎の公園
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