哲学ブログ

死の概念~自然と人工~

「辛い人生より死を選ぶ」・・・アイスキュロス
「四十九年一睡の夢一期の繁栄一杯の酒」・・・上杉謙信
「生きるのも日常、死んでいくのも日常」・・・樹木希林
「人は死んでも、その人の影響は死ぬことはない」・・・キング牧師
「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」・・・孔子


「死生観」に関して、興味がない人はあまりいないと思う。「死生」に関しては、自然現象であるが「死生観」になると人工的現象になる。人工とは、人間が現実世界でも精神世界でも人間の利便性等に基づくものである。


 死ぬことはすべての生物における最高の恐怖である。人間も例外ではないが、稀に例外的に生より死を選ぶ人がいる。所謂、自殺である。


 人間に限らず、例えば多くのネズミが海に飛び込んで自殺しつた事例などもあり、その原因はす極端なストレスと言われている。極端なストレスがあれば生物は自殺するらしいが、日本でも年間約3万人ほど自殺する。そこからみて、人間は極端にストレスが溜まる生物らしい。


 ただ、今回は、上記の死の名言の様に、人工的な死の概念に関して考えてみた。アイスキュロスの死は、「辛い生より、楽な死」、上杉謙信の死は、「人生の儚さ」、樹木希林の死は「当たり前のこと」、キング牧師の死は「肉体より精神が先立つ」、孔子の死は「生の探求」と言うようなニュアンスである。


 「死ぬとは何か?」を肉体的な事に関して考えれば、誰しも分かることである。「心肺停止、呼吸停止、対光反射停止」で分かりやすい。しかし、「死とは何か?」「死後どうなるか?」を精神的に考えていくと、人工的概念になりスピリチュアルな世界になる。


 「死」が怖いというのは生物全般である。何故なら、生物全般は「生きるために存在している」というのが、生物の大前提だからである。しかし、人間は「死」に対して、色々な意味を持たせたがる。ただ、現在の人間は生きるのが当たり前すぎて死の概念を持てないからこそ、簡単に「死ぬ」という思想を持つ。


 当たり前のことであるが「死」は人生のゴールではない。ただ生物全般における「終止符」というだけである。ゴールとは目的であり、生きることの目的は死ではない。よく「人間は死に向かっている」の様なことを聞くが、それはただ、生物としての自然現象であり、人間は人工的に医学を発展させ、多少なりにも他の生物よりも「死」の現象を遠ざけた生物でもある。


 ただ、「死」がゴールでないが、「人生満足して死ぬ」はある意味人生のゴールである。人間は善くも悪くも「意味を持たせたがる」生物である。「死」も例外ではない。であれば、先達の死に様からも学ぶことが多く、死の概念に対して自分なりの意味を持っていた方が、私の様に下らない人生を送っていても、多少は面白く生きられるような気がする。

火と竹と空
鬼火焚き
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