哲学ブログ

渇愛と正見~在りのまま~

「執着する先にあることは失う事です」

「過去はここに存在しません。未来はまだ訪れてさえいません。あなたが生きているのは今一瞬だけです。」

「真実に向かう途中で犯す間違いはたった2つです。諦めてしまうことと、始めない事です。」・・・仏陀

 宗教というと、基本的には「神話からの神の教え」や「世界創造」、「超自然的な存在」等の信仰を起源として発症している。しかし、仏教は釈迦(ゴーダマ・シッタールダ)という、紀元前6世紀頃に存在していた人間の教えであり、神の教えではないことが他の宗教と大きく異なることである。

 キリスト教の開祖であるイエス・キリストももちろん存在してた人間であるが、キリスト教に関しては「キリストの教え」という物もあるが、基本的には「神(ゴッド)の教え」であり、キリスト教のもとになった「ユダヤ教」をユダヤ人以外に広めたのがキリスト教であり、基本的にはゴッドやヤハウェイの教えを説いているのである。

 仏陀は、インドのヒマラヤの小王国の王子として生まれる。その王子は民衆や周りの人の様々なところで見られる、人間の苦悩に関して深く考慮するようになる。戦争や飢饉などの生きることに対しての苦悩だけでなく、富がないものは富を欲しがり、富があるものもさらに富を欲しがり、飽くことのない苦悩が生じている事や、至る所で老若男女や貴賤・身分の別もない人々の、不安や落胆、欲求不満や愛憎などの苦悩を目の当たりにする。

「何故、人の世は苦に満ちているのか?苦から逃れる方法はないのか?苦しみには原因が必ずあるはず。」などという事を思うようになり、29歳で家族や城・財産等の様々な物を捨てて旅に出る。

 そして、人間が苦しみから逃れる方法を探し、人間の苦悩の本質・原因・救済策などを見つけるために6年にわたって瞑想して、苦しの原因と解決方法を見つける。苦しみは社会的な問題や神が人間に対する罰則、ただの不運等によって生じるのではなく、苦しみは人間の個人個人の心の在り方によって生じるものであるという事を悟るのである。そして、仏教の教えが始まる。

 仏教は、基本的に「苦とは何か?」「苦悩の原因は何か?」等のような、人間の苦に対しての根本をさぐり、そこから解決する策を考えた学問でもあると、私個人は考えている。だからこそ、「生老病死」、「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五蘊常苦」等の、「四苦八苦」のような苦に対して様々な側面から考慮しているのであり、苦に対しての様々な言葉も残っているのである。

 仏陀の悟りの中でも、中核的な教えの1つが、「渇愛」と言われる。渇愛とは「対象になる者に対して、貪り執着すること」である。それは身体的事に限らず、精神的な事も含まれる。

 ・感覚的な刺激や快楽に執着してしまう「欲愛」

 ・対象のぞんざいそのものに執着していまう「有愛」

 ・その対象が存在しなくなる事へ執着してしまう「非有愛」

と、渇愛は3つの分類にに分かれる。

 人間の心は基本的に満足することができない。それは渇愛をもって様々な経験に臨んでいるからである。渇愛は常に不満を生んでしまうのである。一時的に満足したとしても、満足感は長期的に続かず、さらなる渇愛を生む。

 貧困な者は富を欲しがり、富を持つ者はそれに満足することなくさらに富を欲しがる。人間の心は、快楽を感じればさらに快楽を欲する。不快を感じればその不快なものを取り除こうとし、さらに不快になる。時には渇愛は人間同士の衝突を起こし、苦痛を伴う事もある。

 したがって、心はいつも満足することができずに渇愛による悪循環から抜け出せないため、老若男女・貴賤・貧富等問わずに、不安や悲しみ、苦悩等の負の感情が常に人間の生には付きまとうという事である。

 そこで、仏陀はその渇愛による悪循環から抜け出すために、「物事・事象」などをただ在るがままに理解するという「正見」という方法を発見する。物事や事象は、個人個人の感情や環境、性格などのフィルターを通して解釈されて、理解される。その、個人個人のフィルターを外して、物事や事象等を解釈することが正見であると、私自身は考えている。

 例えば、「隣の芝は青く見える」と言う諺があるが、ただそれは「隣の芝が青い」だけである。しかし、自分の庭の芝が青くないから、嫉妬し、隣の芝の青さが羨ましく思うのである。嫉妬というフィルターを通すからこそ、渇愛が生じる。

 お金に関しても、1万円や100万円、その金額自体はその等価交換以上の価値を持たない。しかし、お金がない人は1万円でも高価に思い、お金がある人は100万円でも安価に思ってしまう。その金額自体に、安い・高いは個人個人がつけている感情なのである。

 物事や事象自体には、基本的に善悪はない。ただ存在するだけであり、そこに意味を持たせたがるのが人間なのかもしれない。しかし、それ故に苦悩をもたらす。

 物事や事象を解釈する際に、それら自体をありのまま見ることは人間には難しい事らしい。人間の記憶は在りのままを記憶するようにはできていない。在りのままに記憶することもできるが、それより自分の都合にいいように変換する作用の方が強いらしい。だからこそ、人間は矛盾の中で生きているのである。

 ・渇愛の終わりは、人が「超越的な正見」を手に入れた時に起こり、それは無常と無我への洞察を通して得られるという。・・・Wikipediaより

 もちろん私みたいな凡人が「正見」出来ているというわけではない。私自身も、基本的に煩悩にまみれ、生きる事自体に何故か苦悩を感じる人間である。それは、正見ができていない証拠であり結果でもある。

 ただ、物事を在りのままにまず考えることができるようになれば、下らない人生も、面白く生きれるような気がする。

仏陀と禅

 

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