哲学ブログ

学と学歴~本質~

「変わっていくこと、それが学ぶという事、知るという事です。自分が変わっていなかったら、何も学んでいないと思えばいい。」・・・養老孟子

「大学とは、学習の場である。ビジネスも、学習の場である。人生そのものが、学習の場なのだ。」・・・トーマス エジソン

 学歴社会・・・今でこそあまり使われないが、私が子供の頃はよく使われていた言葉である。私の親より少し若い世代は、良い企業に就職するためには、大学以上の学歴が必要であり、偏差値の高い有名大学の学歴があれば「生涯安泰」という、「学歴からの終身雇用神話」があった。

 当時は、何故か大卒の方が高卒が「偉い」という風潮があった。大卒が高卒より「勉強ができる」というのは何となくわかるが、「偉い」・「すごい」等の考え自体は、私はあまり納得ができない。

 確かに、日本は(日本だけに限らないところもあるが)、まだまだ学歴社会の風潮がある。高卒よりも大卒の方が、生涯稼ぐ額も3千万以上、大卒の方が高い。高卒から社会人になって、新たな資格を取るより、大卒の方が資格も取りやすい仕組みもある。

 例えば、私は社会人になってから社会福祉士の資格を取ったが、大卒だった為、通信教育で専門学校に訳1年半通い、社会福祉士の受験資格が得れた。これが、高卒であれば、4年以上の相談員補助等の仕事をしたのちに、専門の学校へ通わなければいけない。

 学歴が高い方が、色々な面で有利になるように人間社会の世の中はできているらしい。

 ただ、学歴で人は判断できるほど、浅くはない生き物であると私自身は考えている。もちろん、学歴はその人を評価する1つの指標にはなる。しかし、指標の1つに過ぎない。学歴が高くて有利になる事もあるが、それが直接「生きやすい」という事にはならない。

 私世代は、「就職氷河期世代」と言われた最後の方の世代であり、大卒でも中々就職が難しかった。ただ、福利厚生がしっかりしている所謂「一流企業」と言われるようなところは難しかったが、飲食店等の常に主に人力により成り立ち、且つ人が足りていないような業種には、もちろん就職しやすかった。

 ただ、多くの大卒生は、「学歴というプライド」があったためか、そういうところに就職する人は少なく、一流企業のようなところで正社員で働けないのなら、フリーターを選ぶ人も、少なくなかった。

 私自身は、親が自営業で飲食店をやっていたため、飲食業界に就職した。そこでは、中卒・高卒・高校生・大学生・大卒のアルバイトがおり、色々と人間勉強になったと思っている。

 中卒が必ずしも高卒や大卒より仕事が出来ない訳ではないし、大卒のフリーターが接客がうまいかと言ったら下手だったり、ある有名大学のバイト学生は、料理の理論にはすごく詳しかったのだが、理論を知らないキッチンスタッフより、料理が下手くそだったこももある。

 そういう経験があると、「学歴って、人間として必要?」と、考えてしまうことがある。正直、私自身の考えは「学歴はどうでもいい。」というところである。ただし、「学がないといけない」とも考えている。

 冒頭の養老孟子先生の言葉にもあるが、本来は「変わるために学ぶ」ものが「学問」であり、学問の本質は自分の納得できる自分の追求のために、色々な師に「問い」、色々な師から「学ぶ」ものである。そして、その師が必ずしも人間とは限らない。

 山や川、海などの自然から学ぶこともあれば、人工的なオフィスビルやエンターテイメント的な施設、人間の創造の産物である神話や物語等が、人生の師になる事もあり得る。

 そして、学歴は無くても、学がある人は、人生が生きやすくなるとも思う。例えば、学歴が高いからこそ「隣の芝が青く見える」という事もある。しかし、世の中の本質を考えると、「隣の芝が青いかどうかはどうでも良い」という回答に、私自身は行きつくと考えている。

 学歴というプライドがあると、どうしても学があったとしても学歴がない人に対し、何故かその人を自分の格下という位置づけにする、謎の自己ヒエラルキーが存在することが多々あるような気がする。そして、その謎の「学歴ヒエラルキー」が、まだまだ存在している訳である。

 ただ、私自身は学歴を否定しているわけではない。学歴が良い方が、社会に対するアピールポイントにもなるし、仮に「東京大学卒」という、大卒の中でも「Top of top 学歴」であれば、私自身もやはり「すごい人」と思う。

 学歴が高い方が、教養がある可能性が高いという事も否定はしない。しかし、それだけが人の価値ではない。

 その後が大事である。学歴は「自分史における学問の歴史」ではあるが、「それがどう活かされているのか?」という答えになるものではない。それは、社会に出てみないと分からないものである。

 その中において、「学」がないのは、如何なものかと思う。私自身は「学歴」はあってもなくてもいいが「学」はないと、人間的にどうかと思うことがある。「学」とは、私たちが中学校や高校で習った「5教科」のことだけではない。

 「学」とは、自分が生きるために必要な知識を得て、習得するものだと私は考えている。

 私の生まれ育った町の歴史的産物に「いろは歌」というものがある。島津日新公という人が、作ったものである。「いろはにほへと・・・」の全ての頭文字から短歌をつくった「武将の短歌集」みたいなものであり、その当時は「薩摩の論語」と言われるほどのものだった。その歌の中で、

「知恵能は、身につきなれど荷にならず、人は重んじ恥じるものなり」

 という歌がある。「知恵や能力というものは、自分の身にはなるが、荷物にはならない。知恵や能力をたくさん持っている人は、周りの人から重んじられ、そういう人を見た人は、自分が知恵や能力がないから恥ずかしいと思うものだ」と言うような意味である。

 人生における今の人間社会では、まだまだ学歴社会な面があり、学歴が高い方が経済的な面においても有利である。しかし、学歴があっても、学がなければ社会的や文化的にも生きにくいのも事実であり、私個人は真理の1つであるとも考えている。

 学歴の有無にかぎらず、「自分の人生における十人十色の学」そのもの自体は自分で研鑽していかないと、人生は面白くならないものなのかもしれないと、考えてしまう・・・

学の源
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