「私たち(サピエンス)とチンパンジーとの真の違いは、多数の固体や家族、集団を結びつける神話という接着剤だ。この接着剤こそが、私たちを万物の支配者に仕立てたのだ。」
「想像上の現実は嘘とは違い、誰もがその存在を信じているもので、その共有信念が存続する限り、その想像上の現実は社会の中で力を振るい続ける。」
「生物学に自由などというものはない。平等や権利や有限会社と全く同じで、自由は人間が創作したもので、人間の創造の中にしか存在しない。」
上記の文章は、サピエンス全史という本にでてくる文章である。以前も記載したが、我々の直接先祖である「ホモ・サピエンス」は「ホモ・ネアンデルターレンス(ネアンデルタール人)」や「ホモ・エレクトス」等の、サピエンス以外の「ホモ属(人類)」を滅ばし、食物連鎖の頂点となった人種である。
他にも、サピエンスは約4万5千年前にオーストラリア大陸に足を踏み入れられたという説がある。そして、オーストラリア大陸に住み着いて数千年で、大型動物の24種類のうちの23種類を絶滅させたという話も出る。
ニュージーランドにおける最初のサピエンスの移住者であるマオリ人は、800年ほど前に移住して、約200年でその地の大型動物大半は、全鳥類の6割と共に絶滅させたらしく、他にもこの手の紹介がされる。
寛容さは、サピエンスのトレードマークではないと表現もされている。ただ、サピエンスも生きるために必死であった結果である。
ネアンデルタール人は50人~150人くらいまでの集落で各地に住んでいたと言われる。それは、私達現代人が特別な法律や掟、利害関係等を持たずに統率できる人数と変わらない。
人間が特別な法律や掟等を抜きに、団体で指揮・統率できる人間の数は150人までと言われており、この数を「ダンバー数」という。実際軍隊等でも使われている数である。であれば、集団を指揮する知識等は、ネアンデルタール人と私たちと変わらないという事である。
ネアンデルタール人が特に知能が低いわけでもなく、フィジカル的にもサピエンスより勝っていたと言われている。しかし、私たち直属のホモ属であるサピエンスの先祖は、ネアンデルタール人を絶滅させたと言われる。
以前も記載したが、これは約7万年前からサピエンスのみに起こった突然変異である「認知革命」と言われる、神様やシャーマニズム的な事、物語や噂話等の「虚構」を「共有する」という能力のよるものと言われている。
歴史を振り替えれば一目瞭然だが、宗教の信仰心が持つ力の幅と強さは凄まじいものである。億という単位の人間の思想を統一し、時には生きるために進化したはずの人間が、死をいとわない覚悟ができる程である。
また、噂話も虚構の共有の1つである。動物の中には、特定の泣き声を出すことで「敵が来たぞ!」と知らせることができる。それはネアンデルタール人も同じであったらしい。
しかし、サピエンスは噂話という虚構を共有することで、「敵がどんなものであり、どんな性質があり、どこにおり、どうすれば追い返すことができる」等と噂話をすることで、より緻密に生きるための戦略を練ったのである。
サピエンスは緻密な戦略と、膨大な人数の指揮を「虚構の共有」によって得ることができたため、ホモ属(人類)をサピエンス以外滅ぼし、大型動物も滅ぼすほどの力を得たわけである。
しかし、その後約1万年くらい前に農業革命が起きる。農業はサピエンスにしかできなかったのだと思う。何故なら、何か月先の「作物が実るはず」という、現実なりうる想像を共有しないと成り立たないたたないからだ。
ただ、狩猟採集の時代の方が栄養価が高く、働く時間も短く、ある意味裕福な暮らしだったらしい。
しかし、何故農業革命がおこった後に、狩猟採集の時代に戻れなかったのか?という疑問が残る。サピエンス全史では色々と記されてはいるが、最終的に「サピエンスの誤算だった」という事である。
その誤算とは、農業革命により定住することで子孫が予想以上に増えたというところである。狩猟採集時代は、遊牧するため子供をたくさん産みづらい環境であった。また米や小麦は母乳の代わりともなったため、多くの子供を産むようになったという事である。
もしかしたら、サピエンスのDNAが、生きるという本能以上に、子孫繁栄という本能が働かせたのかもしれないと、私は勝手に想像してしまう。ただ、子孫は多くなったがその分死ぬ子供も多く、サピエンスの仕事量は裕福にならずとも増えていったことは間違いなさそうである。
狩猟採集であればそこまで緻密な年間計画はいらない。しかし、農業は緻密な年間計画に加えて、不作だった場合にも備えなければいけないという未来予測が欠かせなくなる。未来予測は遠ければ遠いほど虚構に近づく。しかし、それを共有できたからこそ農業が今でも行われているのである。
そして、国が出来れば神話が必ず利用されてきた。それは日本も例外ではない。日本は古来より「天皇」という存在がいる。それは古事記における「神の子の子孫」というアイディンティーを持っていたからこそ、古代では権力者であり、現代でも敬われている存在なのである。
歴史上有名な「ハムラビ法典(私たちの時代では世界最古の法典と言われていた)」は、ハムラビという有能な王が、「エンリル神によりハムラビに委ねられ、マルドゥク神によって導くように任された」といことが記されている。エンリル神とマルドゥク神はメソポタミア神話の神である。
ユダヤ教やキリスト教、イスラム教等の統治も、歴史をみれば明らかであり、昔は「神話という虚構の共有」でそれぞれの民族を統治してきたのである。
現代人からしたら、それは「古い考え」と思うかもしれない。しかし、私たちは現実にいないが想像上のものに人権を持たしている組織のことを「法人」と呼ぶ、生物の犠牲に成り立つ食料や衣類等と同等の価値を持たしているもの「貨幣」と呼ぶ。
特に日本人は「神」という存在を信じない。彼らに言わせれば「それは人間の願望が生んだ想像上の産物だ!」と言うだろう。しかし、「法人」「貨幣」等や「幸福」や「自由」さえも「想像上の産物」なのではないだろうか?
それが「良い・・・悪い・・・」等と言っているわけではなく、それが真実であるかもしれず、それが私達ホモ属という人類の人間的本能なのではないか?であれば、思想的にも本質は狩猟採集の時代と変わらないのではないか?等と思ってしまうのである。
ただ神の話である「神話」という虚構を共有することから、ただ信じることのできる話である「信話(こんな言葉はないが・・・)」を共有するだけになったのかもしれないと思う。そうであれば虚構の共有という本質は変わってはいない。
どうでも良い話ではあるが、現代人の本質を生物学的歴史から鑑みて分析することで、もしかしたら、下らない人生も少しは面白く思えるかもしれない。