哲学ブログ

疑心暗鬼~人工的メンタル~

 「人に騙されることは決してない。自分に騙されるのだ。」・・・ゲーテ

「自分の心を疑えば、暗闇にいるときに鬼が見える」と言う意味の4字熟語が「疑心暗鬼」である。

 自分の心を疑うという事はある意味、自分の仲間や友人等も疑うという事でもある。常に様々なものを疑い、暗鬼を想定することで周りに警戒する本能が人間にあるのかもしれないと思わせるような言葉である。

 ただ、あながち冗談ではない。人間に限らず、動物は警戒心が強い。野生の動物は人間を見たら逃げる。野良猫を見た時に、可愛がりたいという行為をしようとしても、まず逃げられる。熊や蛇の様な反撃できるというか、人間に勝てる動物は襲ってくるかもしれない。

 しかし、そんな動物も、「熊なら音」、「蛇なら煙草」の様に苦手なものもあり、それらは動物にとっては、何故危ないのか分からないが、危ないと動物も思い込むため怖がるのである。

 熊は、音を聞くことによって危険を察知し、蛇は煙草のニコチンに危険を察知して避ける。しかし、熊は大抵の動物にも勝てるので、音を聞いてもビビらなければ、ほとんどの相手に勝てる。蛇もニコチンに対して危険を感じても、タバコの吸い殻が混ざった水を飲まなければ、人間に嚙みついても、蛇自体に危険性はない。だが逃げるのである。

 人間は現代でも地球上で人間を殺す生物ナンバー2であり、もともと、知らない人に警戒を抱き、疑心暗鬼になる習性があるのかもしれない。「知らない人間は危ない」という感覚は本能と言っても過言ではない気がする。ただ、ほとんどの人間は統計的に、危害を加えない人の方が間違いなく多い。

 疑心暗鬼は、人が人を殺すのが珍しくもない時代の言葉でもあった。ただ現代では、「疑われる・嫌われている」等の予想に対しての言葉になっている。

 であれば、疑心暗鬼という言葉の内容はただ、「疑われているかもしれない?嫌われているだけかもしれない?」という事がほぼであり、自分の人生に対して、然程影響力があるものではないはずである。

 それでも、「疑われる、嫌われる」という事に対して過敏反応してしまうのは、人間の生物的な面より、人工的な面が強くなりすぎたための異常反応なのかもしれないと思う。疑われたり、嫌われたりしても、まず殺されるという事はゼロに等しい。

 また、100%の人に嫌われる人もゼロに等しい。であれば、いかに現代で疑心暗鬼になっても、考え方次第では人生には問題がない。嫌われても殺されるわけでもないし、少なからず友人が殆どの人にはいるからだ。

 しかし、それでもやはり「嫌われる」という事に関しては過敏に反応してしまう。もしかしたら「承認の欲求」は、人間の欲求の中でも、一番強いものなのかもしれない。その感覚は私にも解る。しかし・・・

 「礼するは、人にするかは人をまた、さぐるは人をさぐるものかわ」・・・島津日新公

 礼を尽くすのは他人のためのことか(いや違う、自分の品位を保つためである)、人の悪口を言うのは人を辱める事だろうか(いや違う、自分の品位をさげるものだ)と言うような意味である。これは人間社会において真理の一つである。

 とどのつまり、人から疑われようが、嫌われようが、自分が正しい行いをしているのであれば、気になる事でもなく、また本当に人工的に正しければあまり嫌われるものでもない・・・という事も真理の一つである。

 人工的意識とは、何も科学文明だけではない。各々の地域や国で育ってきた文化も、人工の産物であり、その在り方が人工的意識となる。

 「人工的意識」が進むのはいいのだが、その分人間の「人工的メンタル」の対応力が進んでない気がする。何故なら、人工的メンタルの対応教育は昔からの道徳等であるが、数学や英語等の所謂「役に立つ」と言われる学問の方が明らかに重宝されていることが1つであると私は考えている。

 しかし、上記の日新公の言葉の様に、昔からの先達達の教養や教えは、「人工的なメンタル」を強くするものなのかもしれない。言い換えれば人工的なメンタルに対応できる教えであり、「疑心暗鬼」にならないような教えでもある。

 「疑心暗鬼」は自分の心が弱いがために人を疑い、いないはずの鬼を暗闇の中に見出してしまうものである。それは、人工的な本能である。そして、論語や貞観政要、いろはうた等の先達たちの教えは、人工的本能を人工的教養で解決しようとしたものなのかもしれない。

 疑心暗鬼になり、「生きることが辛い、意味がない」などと思う事は、つまらない事である。疑心暗鬼になっても、大したことではないと思えたり、そもそも疑心暗鬼にならない考えを持てた方が、世の中、面白く人生を生きられると思う。

疑心暗鬼
  • この記事を書いた人

yu-sinkai

-哲学ブログ