日本は、元々自然崇拝により神を創り、その後神道が生まれる。そして仏教が輸入され、仏教と神道が混ざり、次第に庶民に仏教が広がるが、キリスト教の布教も始まる。時には儒教等の教えに重きを置く時代がある。最終的に日本の神話は「古事記」であり、「天皇は神の子」という教えを再度浸透させ、日本は神の国というアイデンティティーを確立する。
しかし大東亜戦争に負けて以来、古事記はただの歴史的書物となり、その後の日本は無宗教の国となる。だが、無宗教であるが故に、宗教的行事を宗教と考えなくなり、文化として捉えらえ、主に「仏教・神道・キリスト教」が交じり合うような宗教観を持つようになる。
この日本独特の宗教観を、私が大学時代の講師が「日本教」と呼んでいた。
この年になって、歴史は点ではなく線であることを改めて学び、むしろ歴史を点で考えると、そこまで重要な学問に思えないと考えてしまう。しかし、歴史を学ぶと様々な物語の時代背景がわかり、人間の文化的な意識の動線を追えるのではないかと、最近は考えることがある。
そう考えると、この「日本教(正式にはこのような言葉は使われないと思う)」の歴史を知ることで、何か今の自分たちが「こういう考えをしてしまう!」という事のヒントになるのではないか?ということに繋がるかもしれない。
そう考え、ざっくり古代~現代まで宗教や思想の背景を私なりまとめてみた。ものすごく簡略化しているので、そこはご容赦頂きたい(・_・;)また、細かい諸説もガンはぶきしているので、そこもあまり気にしないでいただければと思う。
古代
宗教等の日本史の流れを説明すると、西暦550年頃から仏教は百済より輸入され、仏教で国を治めるようになる。そこで「蘇我氏と物部氏」との対立が起き、「蘇我氏」が勝ち、仏教が本格的に輸入される。
何故、蘇我氏が仏教を輸入したかったかというと、自分たちの文化より朝鮮や中国の文化の方が進んでいることを知っていて、仏教は進んだ文化の中で重要なカルチャーだったからである。そして、仏教という教えは庶民を救う教えで、政治的にも非常に有利になる事も分かっていたから、輸入したかったのだ。また、聖徳太子が日本初の憲法(十七条の憲法)を創り、仏教を国教化する仕組みができる。
だからこそ、仏教の権力ピークである奈良時代には、あんなにでかい大仏が立てられ、「鎮護国家」という、「仏教の教えにより庶民も救われる!」という思想で国をまとめようとした。思想の統一には宗教や教え、しかも「救われる」という思想は「虚構の共有」にぴったりだったと思う。
その間で、天武天皇(673~686)が「帝紀(天皇の系譜や伝承)や「旧辞(神話や説話等)」に誤りが多いことを憂慮して、稗田阿礼(ひえだのあれ)に各地を回って各地で神話等を聞き、それを覚えるように命じ、日本独自の神話を再構築しようとする。その後、元明天皇(707~715)が天武天皇の意志を引き継ぎ、太安万侶(おおのやすまろ)に完成させた神々の物語が「古事記」である。
「古事記」の目的は、色々と諸説あるが、元々天皇は「神の子孫(元をたどれば天照大神の子孫)」であり、その天皇のアイディンティーを確立するためにつくられたのではないかと私自身は考えている。ただ、仏教は「救いや教え」という思想があるため、庶民の人気も得て普及していく。
しかし、仏教が普及して権力を握るようになると、道鏡というイケメン坊さんが権力を握り「天皇になっちゃおうかな?」と考え、いざこざが起きたため桓武天皇が権力から仏教を遠ざけて、「真言宗(最澄)」や「天台宗(空海)」等の「密教」と呼ばれる、所謂「厳しい修行をして悟りを開く」という仏教を広めた。
そこで、「仏教=きびしい修行」というような考えが広まり、また仏教は厳しい修行に耐えて悟りを開けば救われるというような思想の宗教に近くなる。
中世
しかしそうすると、それはそれで民衆は生活でいっぱいいっぱいで修行できるほど暇はなく、「どうせ修行のできない自分たちは救われない・・・」という不満が募った。そこで鎌倉時代には、そんな民衆をみて救いたいという僧侶が現れて、新しい6つの仏教が誕生した。
「浄土宗(法然)」・「浄土真宗(親鸞)」・「時宗(一遍)」・「日蓮宗(日蓮)」・「臨済宗(栄西)」・「曹洞宗(道元)」である。
浄土宗は「ひたすら念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば救われる」。浄土真宗は「1回念仏を唱えれば救われる」。時宗は「踊りながら念仏を唱えれば救われる」。日蓮宗は「日蓮宗のみを信じて、念仏(何妙法蓮華教経)を唱えれば救われる」。等と説いた。
ちなみに「南無」というのは、「帰依する」という意味であり、簡単に言うと「従います」という事である。なので、「南無阿弥陀仏」は言い換えれば「阿弥陀仏に従います」という事になり、「何妙法蓮華教」は「法蓮華経(経典の教え)に従います」という事である。
臨済宗は「座禅して悟りを開けば救われる」。曹洞宗は「座禅しながら僧侶と問答をっして悟りを開くことで救われる。」等と説いた。(ざっくり過ぎて申し訳ない。)
この、鎌倉仏教の教祖たちは、島流しに合ったりもしたが、それでも民衆を救いたいと考え、それぞれの宗派を創っていった。
その後、仏教の勢力が強くなる。特に勢力が拡大したのは浄土真宗である。そうなると、その自治体を自分たちでつくるようになり、「一向宗」という、僧兵の集団ができるようになる。その時代の権力者も仏教を信じているため、一向宗の人たちが「仏罰が下りますぞ!」というと、中々手が出せなかった。
そこに、戦国時代の「第6天魔王」の異名を持つ有名な武将「織田信長」が、仏教を弾圧して焼き払っていく。「石山本願寺焼き討ち」が有名である。そして、その時代の頃くらいからキリスト教が日本に布教されてくるの。織田信長はキリスト教に関しては寛容であった。物流関係や政治的なところが理由にあると言われている。
また、仏教は「酒、肉、女」等の本来禁止されていることを守らず堕落していたが、寄付(ある意味、宗教税)を求めていたことも織田信長が仏教を弾圧した理由の1つであると言われている。ただ、織田信長は神や仏は信じなかったというよりも、神や仏を政治や戦のための動機付けや理由等に使うのが嫌いというスタンスに近い宗教感だったんじゃないかと、私は勝手に解釈している。
そして、初めて日本を統一した人物である「豊臣秀吉」は、キリスト教に改宗した九州の大名が、秀吉の許可を得ずに勝手に長崎をイエスズ会にあげようとしたことで、「キリスト教は政治に影響を及ぼす」と判断し、キリスト教を弾圧していく。「伴天(バテレン)連追放令」が有名である。
ただ、私個人の見解では、キリスト教が広がった理由としては、仏教と同じような理由になるが、その宗教のヒエラルキーはあるものの、「身分差別されない」というところにあったのではないかと思う。
近世
豊臣政権の次には、「太平の300年」を築く「徳川家康」が時代を作る。そこで徳川家康は、仏教もキリスト教も採用はせず、「儒教」を取り入れていく。「儒教」は「宗教」ではなく「教育」であるため、神仏等はいないが、尊い教えでもありながら政治をコントロールしやすい教えでもあったわけである。
儒教は、「人間として正しくあれ。年配者を敬う。主君に忠義を尽くす。」等の「義」の教えがあり、「君主制度」に都合が良かった。戦国時代までは、基本的に主人がだらしなければ、家来はすぐに寝返っており、殆どの家臣は使えない主君に基本的に忠義は尽くさなかったと言われている。「ブラック企業と言われる企業はすぐにやめた方がいい」という、我々の現代の感覚に近いかもしれない。
そして、「儒教」の教えが広まり、「主人に忠義を尽くすべし」という言葉がでてくる。主君の仇討ちで有名な「赤穂浪士事件」も、儒教の教えを広めたことによるものである。
また、キリスト教に関して江戸時代は布教を許していた時期があったが、鎖国政策(今では鎖国は無かったという説もあるが)と共に、キリスト教に禁教令を出し、キリスト教徒を探し当てるために「踏み絵」をさせて、キリスト教を弾圧していく。有名な「隠れキリシタン」である。
当時の日本が江戸時代に主にポルトガルと貿易をしていた理由の1つには、「他の国との貿易だと、キリスト教の布教もセットだったが、ポルトガルだけはキリスト教の布教とは関係なく貿易ができた」という説がある。
近代
江戸が終わり明治の時代には「日本独自のアイデンティティー」の再構築を図るために、日本独自のものである古事記をもとに、「神道」を国教化していく。『日本は「神の国」であり、天皇は「神の直属の子孫」であり、日本人は「神の子」である。』という事を広めていく。
そこで邪魔になった宗教は「仏教」である。私の主観ではあるが、おそらく宗教の国教化は、奈良時代の「仏教による鎮護国家」以来ではないかと思う。千年たって今度はその仏教を無くそうとした。神道を国教化するために行われた政策が「神仏分離令」であり、「神仏習合」の概念を覆したのである。
そのことにより、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」が行われていく。廃仏毀釈の意味は「仏を廃し釈迦(ブッタ)の教えを毀(こわ)す」という事であり、多くの寺が壊されたのである。重要な文化遺産も毀されたのである。
そして日本は近代化していくが、「大東亜戦争(第2次世界大戦)」で、天皇崇拝のもと「一億玉砕」の思想をもち、「特攻隊」までつくりアメリカ等と戦った。そこで負けて、日本を統治したGHQ(連合国軍時司令官総司令部:General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)が、神道の普及を止めさせる。
話が少し変わるが、日本初の紙幣になったのは「神功皇后(じんぐうこうごう)」であり、朝鮮を攻めた皇后と言われている。そして「菅原道真」、「武内宿禰(たけしうちのすくね)」「和気清麻呂(わけのきよまろ)」「藤原鎌足」等と、天皇家に仕えてきた人がお札の肖像画になってきた。(「誰それ?」と思う人が大半だと思う・・・)
日本人は「天皇に使えるべきである」という思想の表れが、お札に表れているのである。
しかし、GHQが日本を統治するようになり、天皇に関わる人物は却下されるようになる。現に「ヤマトタケル」が一時期お札になったがすぐに却下され、神道的な文化は排除されていった。そして、お札に載る人物は、当初はGHQが管理するのようになるのである。
何故なら、お札に載る人物とは国が国民に「尊敬して欲しい人物」であり、その「尊敬」とは思想的な面があるからだ。だからこそ何度かお札に選ばれた聖徳太子は「和をもって尊ぶべし」という教えを持っていた人物であり、当時の日本人にそう教育をしたかったから、GHQは聖徳太子を選んだりした。
私自身、大東亜戦争でアメリカがすごいと思ったことは、ほとんどの日本人に「日本は悪いことをした」と思い込ませて、この当時の日本人の洗脳をしたことである。私の親世代は、大東亜戦争に関しては「日本は悪かった」「当時の軍部はバカだった」と言うのである。
小さい頃は私もそう思っており、私が小学生の時に書いた読書感想文で「南京大虐殺」という本を読んで「日本人は愚かだった。中国人に謝りたい」等と書いたのを覚えている。そこまで、洗脳が行き届いていたという事である。
現代
そして、現代では「日本は無宗教の国」と言われたりするが、初詣等の「神道」の行事もすれば、葬式ではほとんど「仏教」であり、結婚式では「キリスト教」の儀式を行う人が多い。それらの宗教自体には関心がない人がほとんどではないだろうか?
また、日本人は思想が他の国よりもわりかし自由である。自由な思想を持つが、「儒教」の様に年功序列であったり、「和を以て貴しとなす」のような聖徳太子の教え、日本人はバカだった等の「GHQ」の洗脳等、色々交じり合ってきたのが現代だと思う。
良くも悪くも、色々な宗教や思想を取り入れて、自己解釈していくことが日本人の強みなのかもしれない。生物的な本能や人間的な本能は何年という短い期間では変えられるはずがない。しかし、人工的な本能、言い換えれば、人工的思想はその時代で変わってきた。
日本人はその思想の柔軟性を人工的な本能として持っているかもしれない。そう思い学んでいけば、日本教は人生の本質は下らなくも、面白く生きていけるスパイスになるのかもしてない・・・等と些か考えてしまう。