「言葉で諦める者は、現実でも諦めるもの」・・・ジークムント・フロイト
「諦めるな!」私世代は、よく親や教師にそう教えられてきたものだ。現在でもそうだが、何故か「諦める≒悪いor弱いor駄目」等、諦めることに対して負の概念が一般的にあり、ある意味、昔から普遍的な1つのパラダイムとなっている。
確かに、なんでも簡単に諦めるのは良くないが、「諦める」の語源は「明らかに見る」らしい。であれば、諦めることとは、その物事が「明らか」にわかるまで「見る(考える)」ことが必要である。
諦めるという概念自体が悪いように考えている人が多い。諦めるとは、概念的な面も分からなくはないが、基本的には手段である。「何かを得る為に、何かを諦める」という事であれば、「得る為」の手段の1つが「諦める」である。
例えば、普通の社会人が働く場合、8時間という自由時間を諦めて会社に勤めてお金を得る。家族がいれば、家族の時間をある程度諦め、恋人がいれば、恋人との時間をある程度諦めていることになる。しかし、それは働いてお金を得るの手段の為、ある程度諦めている事でもある。諦めるという表現が悪いだけであれば、ただ諦めるという概念に対する評価が悪いだけである。
よく、何もしてないのに最初から諦める人もいる。例えば、転職をしたくても、齢のせいにして転職できないという人や、好きな異性がいてもどうせ自分には無理だという人など珍しくない。しかし、それは諦めているという前に、行動すら起こしていないから、諦めるという前に、そもそも論、本当は願望にすらなっていないというのが現実である。
諦めるとは、行動を起こしたうえで、明らかに見て選択することである。その選択の中で、より良い選択にするためには、悪くなる可能性があるものは、諦めなければならない。「人生は選択の連続である」という言葉があるが、言い換えれば、諦めることの連続でもある。選ぶという事は、言い換えれば選ばない(諦めること)ことを選ばないといけないことでもあるからだ。
「私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまく行かない方法を見つけただけだ」・・・トーマス・エジソン
言い換えれば、1万通りの方法を諦めたことでもある。
諦めることを助長しているわけではない。ただ、「諦める≒悪いor弱いor駄目」という事ではないと主張しているだけである。諦めるという概念は、人間として駄目であるというパラダイムがおかしいと思っているだけである。何かを諦めなければ何かを得ることが出来ないのであれば、諦めること自体は決して悪い事ではない。
諦めるという言葉の本質を考えず、ただ「駄目な概念」という事が先立っているため、諦めた方が良いことも、諦めないことが美徳と思う故に、頑張りすぎる人も少なくない気がする。そこで、精神的な病にかかるとなおさら人生を損する。
「人間は諦めが肝心」という言葉は、人生の真理なのかもしれないと思う。
簡単に言えば、「無理なものは無理」なのである。色々と手段を模索しても無理なものは無理である。ただ、「諦める」という言葉をただの概念から手段にする絶対条件としては、やはりきちんと「明らかに見る(考える)」という条件が必要である。
諦めることは概念ではなく手段の1つに過ぎない。そして、「選択する」ということは、言い換えれば「何を諦めるか?」に等しい。しかし、「諦める≒悪いor弱いor駄目」という概念、パラダイムが先行しすぎている気がする。
時には諦めることが人生を面白くするための手段の1つであると思える方が、良い選択を出来る人生を送れるものかもしれない。