「死ぬときの自分の気持ちがわかるわけがありません。「じゃあ、どお考えればいいんだ?」死ぬのは私じゃない、別の人。そお思えばいいんです。」・・・養老孟司(人生論)
「過去の自分は今と同じ自分か?」と言う問いに関しては、私は違う自分だと考えている。もちろん私自身の過去であるから、私ではある。しかし、精神的、身体的、考え方的等に関しては自分としては確実に違う自分である。
例えば、20年前ぐらいの大学生の自分は「福祉関係の仕事は俺には無理!」と福祉科の友人に話をしていたのを覚えている。それが、今では何故か社会福祉士として高齢者施設で働いている。完全に20年前ぐらいの自分とは考え方も変わっている。
身体的には様々な諸説はあると思うが、人間の細胞の総入れ替えは6年~7年らしい。そうであれば20年前から約3回、身体の細胞が入れ替わっていることになる。
精神的にも、20年前とは大分変わり、若い頃の無謀な精神力は無いが、忍耐的な精神力は強くなっている。
簡単に言えば変化したということである。なので、同じ自分で同一人物でも、違う自分に成っているということである。
冒頭の養老孟司氏の言葉は、健常者である自分が死を考えていても、末期癌等で死にそうになった自分とは違う訳であり、死にそうになった自分は今の自分とは違う自分である故に、別の人と考えることが正解である。という意味である。
未来の自分は、今の自分ではなく違う自分である!ということである。
私自身もそう考えている。意識的には同じ自分であるが、確実に違う自分に成っていくのである。10年後の自分がどうありたいか?という目標に向かい研鑽をしていく。それは、大事なことである。
しかし、10年後の自分が現在の自分と考え方も身体も同じと言う訳ではない。また、10年後の日本経済を危惧して備えをすることは大事であるが、10年後の自分が日本経済に対してどう対処するかは、予想はできてもあてはまるかは分からない。
要するに、過去の自分も未来の自分も「今の自分とは違う!」ということである。
「それがどうしたん?」と思う方もいると思う。しかし、このことを気付くことは結構重要なことであると私自身は思っている。何故なら、過去の出来事を引きずることや未来に対しての希望を見出せなくなる状況を打破できるからだ。
簡単に言えば「過去は過去」、「未来は未来」と割り切れるわけではる。本来割り切るものだと考えていても、中々自分のいわゆる「黒歴史」の忘却であったり、現在の自分から「明るい未来」を見出すのは難しいものである。
ただ、これは真理だと思うが、「あの頃の自分はあの頃の自分であり、今の自分ではない!」ということや、「今の自分がそのまま年老いて、考え方も何も変わらないことはない!」わけである。
であれば、やはり自分という意識概念を持ちつつも、人間は常に変化をしているはずである。
「常に同じと言う感覚」を司る「意識」と言う性質により、急激な変化以外は意外に変化に気付かない。例えば、私の住んでいる町も、昔に比べたら大分変わった。しかし、感覚的には変わってない様に感じる。
記憶をさかのぼり、変化を思い出すのである。「あの場所は昔は竹藪だった。」「昔はデパートがあった。」「昔は賑やかな商店街だった。」・・・ETC
万物は流転する・・・ヘラクレイトス
この真理を理解することで、些かであるかもしれないが生きやすくなる気がする。常に同じという枠に自分を縛ってしまうことの開放に繋がるからだ。もちろん、常に同じと思いたければそれもまた善し。しかし現実そうではない。
「常に同じということはない」という真理を理解していた方が、前向きに生きれると私は考えている、そして、その方が些か人生を面白く生きれる。