「時間は、数学的に測定可能な配列の独立した世界だ」・・・ルイス・マンフォード
「我々は、生活に必要な以上に熱心だ。夢中で日々の仕事に取り組んでいる。立ち止まって考える暇ができては困るからだ。世の中がこれほど忙しいのは、誰もが自分自身から逃避している為である。」・・・フリードリヒ・ニーチェ
ニューヨークタイムズで絶賛尾全米ベストセラーになった「限りある時間の使い方」という本を読んでいて、人生を面白くするために必要な考え方であると思った。
人生を80年と仮定した時に、週に換算すると4000週間らしい。これを長いと捉えるか短いと捉えるかは個人差が生じると思う。私自身は「そんなもんか・・・」という感じである。
ただ、この本の面白いところはタイムスケジュールに関してのテクニックという本ではないということである。タイムスケジュールのテクニック本は私も何冊か読んだことはある。
大抵の本は「こうすれば時間を有効に使える!」という説明である。しかし、この本は「タイムスケジュールをマネジメントするのは無理!」という観点からスタートする。私はこれに関して「なるほど!」と共感した。
何故なら、例えば私も仕事上タイムスケジュールを効率よくしようと努力している。そして効率よくなったところで新たな仕事を命じられ、結局時間に追われるという結果に悩まされていたからだ。
時間を有効に使えば使うほど、何故か時間に追われる。最近では携帯電話などなければいいと思うこともよくある。いつでもどこでも連絡が取れるほど人類は進歩した。しかしその反面、どんな時でも仕事に向き合わないといけなくなったり、休日すらも何故か時間に追われることがでてくる。
電話が自宅の固定電話だけであれば、電話にでれなくてもしょうがなく、仕事のタイムスケジュールもゆっくりでよかったはずである。何故なら周囲の人間が「休日だからしょうがない」とあきらめてくれるからである。
少し話はズレたが、この本の説明を私なりにざっくり簡単に言うと「時間を有効に使うために、今を生きろ!」ということである。
未来のために今を培ってきた人が日本に限らずであるが先進国ではほとんどだと思う。大企業に就職するために、勉強していい大学に入る。老後のためにひたすら貯金する。子供の将来を心配して、遊ばせるより塾に通わせる・・・ETC。例を挙げればきりがない。
もちろん、未来のための投資を否定しているわけではない。ただ、未来のために今を犠牲にし過ぎているという話である。保証のない未来のために、何故か今を犠牲にしてしまう。それは何故かというと「有限である」という絶対真理を認めたくないからとも言われている。
ただ、私の考えでは人間は脳化社会のおかげで「ああすればこうなる」という概念にとらわれ過ぎていると考えている。「一流大学に入れば、一流企業に入れる。そうすれば自分が一流になれる。」、「資格をとれば食いっぱぐれはない。」、「金持ちと結婚すれば、専業主婦(主夫)として一生楽して暮らせる。」・・・ETC。これも例を挙げるときりがない。
しかし、それらは「本当に真理なのか?」というと、私自身は疑わしくなる。「一流企業に入ったから一流なのか?」、「資格を取っても、その仕事が鬱になるほど嫌だったら?」、「金持ちと思っていたが、会社が倒産したら?」・・・ETC。またまた、これも疑うときりがない。
ここからは私の解釈であるが・・・人間は「ああすればこうなる」ということに関しては疑う事が少ない。何故なら自分の中での人生経験による思考を疑わない人が多いからだ。しかし、「ああすればこうなるとは限らない」ということに関しては疎い気がする。
だからこそ「後悔」という言葉がよく使われるのである。未来のために頑張って報われなかったときや良かれと思ってしたのに報われなかったこと等に「後悔」という言葉は使われる。
保証のない未来のために、今を犠牲にし過ぎているのが人類と言う訳である。しかし、その方が自分自身が落ち着くのもまた事実である。「何のために頑張っているか?」という問いに関して「未来のため!」という答えは、誰も否定はしない。
その中で私自身、疑問に思う点がある。本当に未来のために頑張っていれば「今も充実している」はずである。もし、未来のために「今が充実していない」ということであれば、それは未来のためになっているかは微妙と考えている。
私自身、今年は資格を2つとる為に、過去問等の勉強をしている。また、ビジネスセミナーにもパソコン上だが通っている。これらに使う時間は確実に「未来の自分の為の投資」である。しかし、未来に投資する時間である「今」も充実していると実感している。
逆に若い学生時代はそれができなかった。大学の単位は取るものの、よく分からない未来のための勉強より「友人との遊び」や「異性との関わり」、「自分の趣味」等に没頭していた。おそらく、その頃の自分が未来のために勉強等しても身につかなかったと思う。
「人は何ものにでもなれる・・・いつからでも・・・」・・・中田敦彦
「今を生きる」ことが、人間にとって本来重要であることは否定しない。しかし、「未来を生きる」為に、今を犠牲にすることは些かどうかと思う。未来のために「今を犠牲にしている」という概念があるのならばである。
私が学問を本当に面白いと思いだしたのは30歳くらいからである。それまでは遊戯の方が面白く、学問はただのノルマであった。しかし、若い時の遊戯も今となってはある種の「勉学」だとも感じる。この年では出来ない事だからだ。
「今を生きるために人間は生きるべきである。」これは私の真理である。しかし、それが未来に繋がらないのであれば、それもまた真理とは成り得ない。何故なら「今を生きる」積み重ねが「未来」になるからだ。
未来を見据えることを考えすぎて今がつまらない人生は面白くない。未来を考えず今だけ楽しいのも結果的には面白い人生には成り得ない。
今と未来をリンクさせ、両方充実した人生を送れるように取り組んだ方が、下らない人生も面白く生きれると考えている。