哲学ブログ

いずれ死ぬ~人生~

「人生の幸せに近づくために今を生きる。」・・・和田秀樹

「死が訪れた時に死ぬのは俺なんだ。だから自分の好きなように生きさせてくれ」・・・ジミ・ヘンドリックス

 

上記の和田秀樹氏の「どうせ死ぬんだから」という本を読んでいて(まだ半分くらいしか読んでないが・・・)死生観を考えさせられた。

 「死は平等」

 という言葉はよく耳にする。しかし、私はそうは思わない。以前も記載したが、平等とは自分に起こりえる「事象」ということだけで言えば平等になりえる。

 死は誰にでも訪れる・・・それは事実であり故に平等と思いがちだが、例えば「不慮の事故での死」、「殺される死」、「病気での死」、「家族に看取られながらの老衰死」・・・すべて平等だろうか?

 物事における「事象」は平等に訪れても、その「事象のカテゴリー」は違う故に、平等ということは存在しないと私自身は考えている。

 また、「長い人生」と「短い人生」であれば、量の問題としても「死」は不平等だともいえる。幼くして亡くなる命と、天寿を全うして老人になって亡くなる命では、非常に差があると感じる。

 ただ、「自分の好きに生きた人生」と「自分が常に我慢をして生きた人生」と考えたときに、前者のほうが早く死ぬとしても、納得して死ねる人生と思えるのではないだろうか?ちなみに、若いうちの死ということではなく、年を取って高齢者になってからの死というのが前提の話である。

 私たち世代は、「若いうちに苦労していい大学に入れば将来安泰」のようなことを言われて育った世代であり、今でもこの考えは根付いているところもある。

 言い換えれば、「良い未来のために今を犠牲にする」ということでもある。私自身はこの考えに否定はしない。そういう側面があるのは真理である。

 ここで考えないといけないのが「今を犠牲にする」という考えだということである。中年である私も将来のためにいろいろと行動している。

 しかし、それは「犠牲」ではなく「努力」であり、もしかなわなかったとしても努力は何らかの自分のためになるため、後悔にはならないと私自身は考えているため、未来を見据えた今を納得して生きているということになる。

 いずれ死ぬ・・・この事実は覆すことができない。生物全般の恐怖は「死」である。だからこそ人間は「死」を克服しようとしてきた。しかし、「死」を克服するのは無理とわかる反面、「長生き」しようとなり、実際、現在の日本では「人生100年」ともいわれる。

 そこで起きた現象が、医療も福祉もなのだが・・・「長生きしてどう生きるか?」という目標よりも「ただ単に長生きする」という目標が先立つようになってしまった。

 冒頭で紹介した「どうせ死ぬんだから」という本は、我慢をして長生きする老後より、我慢をせず自分の好きに生きて死んだほうが、自分の人生は納得できるというような内容である。(途中までしか読んでないが・・・)

 「人間はいずれ死ぬ。だから一生懸命生きるのよ。」

 ある漫画に出てくるセリフであり、過去のブログにも記載したかもしれない言葉である。生物は生きて死ぬ。それは真理である。しかし、「死ぬからこそどう生きるか?」を考えられえるのが人間である。

 古代ローマの言葉で「メメント・モリ」という言葉がある。これも以前記載したが、訳すと「死を思え」ということであり、「死を思うことで生を大事にする」という解釈や「死んでもいいから戦争に勝つ」等の解釈もある。

 そして、その対となるような言葉に「カルペ・ディエム」という言葉があり、訳すと「今日という日の花を摘め」ということであり、「死はいずれ来るからしょうがないので、今という時を大切にする」という解釈である。

 「いずれ死ぬからこそどう生きたいか?」ということは、私に限らず人間の大事なテーゼであると思う。

 何故なら、死ぬときに後悔したくないと思う人がほとんどであるからだ。

 私は、高齢者施設で相談員として働いており、若いころに頑張って貯金したが、贅沢することなくお亡くなりになった方や、節制した生活にもかかわらず脳卒中等で寝たきりになった方等を見るのも珍しくない。

 勘違いしないで頂きたいが、「貯金や節制が良くない」と言っているわけではない。もっとご自分のためにお金を使って我慢した生活をやめれなかったのか?節制して好きなお酒や食べ物を我慢したのに寝たきりになって気の毒である・・・などと感じるだけである。

 たくさん貯金して遺族に財産を残せてよかった!・・・節制したおかげで寝たきりになるまでの時間を稼げた!・・・とご本人が満足しているのであればそれはいいことである。しかし、ご本人たちを見ていて、あまりそうは思えない・・・何故か・・・

 それは私の主観的な感情なだけかもしれない。しかし、未来のために今を犠牲にするという考えは結局、未来で後悔する考えでもあるように感じる。

 いずれ死ぬからこそ満足に生きる必要がある。もちろん「わがまま放題」というわけではないが、今を満足できない人間が未来も満足できないと私自身は考えている。

 私は愛飲酒・愛煙家であり、寿命は短くてもいいと思っている。(死ぬ間際には後悔するかもしれないが・・・)やりたいことも色々ある。

 しかし、我慢をしてつまらなく長い人生を生きることより、なるべく自分の人生に納得ができるような自己選択のもとに人生を作っていきたい。例え多少人生が短くなったとしても・・・

 人生の最期である死に対して納得できる人生・・・その基準は人それぞれであるが、願わくば死ぬときには納得して死ねる人生を歩みたいものである。それが人生を面白く生きたことになる証でもある。

 

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