「追憶は後方へ向かって反復されるが、本当の反復は前方に向かって反復される。」・・・セーレン・キルケゴール
「未来とは、現在によって条件づけられた追憶の投影に他ならない。」・・・ジョルジュ・ブラック
追憶は、過去を懐かしみ思いをはせる事や過去の思い出をしのぶ言葉であり、英語で言えばreminiscenceやnostalgiaにあたる。漢字で書けば、「記憶は思い出」、「追憶は想い出」となる。
前回、人間はインプットされた情報である記録から自分自身の感情というフィルターを通して記憶とすることを記載した。そして、記憶をさらに個人個人の感性で慈しむことにより追憶になる。基本的に追憶は悪い思い出の時に使う言葉ではない。
過去に起こったことは、その時に辛かったとしても大抵の場合「綺麗な思い出」になる。それは、過去は終わったことであるが故に「不安」という要素がないことが大きい要因であると個人的には考えている。
勿論、すべての思い出がきれいになるわけではない。中にはどう解釈をしても許せない思い出や、情けなくて消したい思い出、怖かった思い出等を抱えている人も多い。私は情けなくて消したい過去は幾度とあり、それを「綺麗な思い出」とは到底思えない。
そうすると、その過去の思い出は、恨みや劣等感、トラウマ等の自分の中から無くしたくなるような負の思い出となる。記憶を負の思い出に変換してしまうと、中々厄介である。何故なら、忘れたくても忘れられず、人生の長期間にわたり付きまとうからだ。「綺麗な思い出」は忘れたくない思い出なので、特に問題はない。
記憶の変換を追憶にするか、負の思い出にするか、はたまた正の思い出にするかは、教養や考え方、感性の鍛え方で個人個人変わってくるものでもある。何故なら情報を頭で記録するのは自然的な動物でもできるが、その記録の変換を記憶にし、さらに追憶や負の思い出、正の思い出に変換できるのは、人間ならではの「人工」的感覚であるからだ。
ただ人間も他の動物と同様、良くも悪くも自然的な感情は生きる為に進化してきたため、不満や嫉妬等の攻撃的な感情が先立つため、記憶をその様なフィルターで通して変換すると、負の感情になりやすいのも事実である。しかし、教養や考え方等の人間的、言い換えれば人工的なフィルターを通せば、幾ばくかは辛い記憶も追憶と成り得るのではないだろうか。
例えば、友人と喧嘩した過去や罵り合った過去を、懐かしみ今の自分を構成した良い過去と思えれば、その記憶は追憶となる。しかし、その過去を自分の汚点や相手の恨みと思えば、負の思い出となる。
色恋沙汰でも、結局どのような終わり方をしようが、その異性との関わり合った期間が自分を構成した懐かしい宝物と思えれば、その記憶は追憶となるが、その関わり合った期間をつまらなかったと思い、終わった結果のみを考えて後悔すると負の感情となる。
勿論、その過去の出来事の度合いにより、記憶からの追憶への変換が出来ない場合もあるだろう。ただ、その中でも教養や考え方次第では負の思い出も追憶の思い出と出来るのならば、人生をより深いものにできると思う。そして、その教養と考え方等に必要な共通感情は「感謝」である。
様々な事を学び考え、そこに感謝できる感性があれば、記憶を追憶に変換できる幅が広がるのではないかと考えている。自分の失敗も踏まえた過去を追憶できることは、人生においてそれもまた一興である。
死ぬときには、出来るだけの記憶を追憶に変換して、最後まで思いをしのぶことができる幅を広く持った方が、幾ばくか面白い人生だったと最後に思えるのではないだろうか。