哲学ブログ

イド・ES(エス)~本能・人工~

「人を動かす欲求は2つしかない。1つは性欲。もう1つは偉くなりたいという欲求である。」

「衝動のある所に、自我を在らしめよ。」・・・ジークムント・フロイト

 イドとは、簡単に説明すると、人間の本能に起因するリビドー(性的衝動)や攻撃的な衝動などのことであり、ESとも言う。無意識の衝動と言ってもいい。フロイトは、人間は生まれた時には「イド」しかないと考えていた。言い換えれば、赤ちゃんや子供の感情的な衝動も含めて、人間の深層心理に「イド」があると考えていたのである。

 その深層心理の衝動的な部分である「イド」を抑制したり、コントロールするのが、「超自我」であると説いた。超自我は所謂、「理性」という言葉に置き換えられると思う。そして、イドと超自我のバランスをとっているのが自我であるというのが、フロイトの考えである。

 人間が生まれた時に「イド」しかないという事は、「イド」は生まれた時の生物的欲求、言い換えれば生きるためだけの欲求や衝動を指すことになる。代表的な欲求が、食欲と睡眠欲である。性欲に関しては、無くはないかもしれないが、基本的にはある程度年を取らないと性欲は分からない。

 ただ、この深層心理にある本能的なイドも、年を取り、理性的になってきた際にはまた変化していくのではないのだろうかと、私自身は考えている。人間に限らず、すべての物は変化する。これは真理である。であれば、人間の本能的な部分も、成長と共に変化していくと思う。

 例えば、生きるために食べるという行為がでてきて、小さい頃は甘いものを好む。大人でも甘いものは好まれるが、これは生物的な本能にも基づく。甘いものはカロリーがあり、本来生きていく上ではカロリーが根本的な必須条件となるから、体が欲するようにできている。

 しかし、人間は個々の嗜好が強く嗜好は成長するに変化し、食欲というイド的な言い換えれば食に対する本能的な欲求は人それぞれ異なってくる。甘い物や辛い物、脂っこい物やさっぱりした物、人それぞれの人生で培ったもので、本能欲求の見た仕方が変わってくるという事である。

 勿論、「空腹は最大の調味料」であるから、極限に空腹になれば、みんな同じかもしれない。しかし、違うかもしれない。今日において、ただ生きていくために食べればいいと考える人はあまりいない。少なからず好みのものを選ぶ。

 リビドーに関しても同じようなことが言える。ただリビドーに駆られるだけの性的欲求を満たすのであれば、誰とでもできるSEXや、自己満のオナニーだけでよい。しかし、そうはならない。やはり相手を選んでしまうし、好意のある相手だからこそ、リビドーが生じる事がある。

 イド的な衝動も超自我、所謂、理性でその本質や過程が変化してくるという事である。また、理性からくるイド(衝動)もあると思う。「誰かを守る」という衝動は、その人生に培ってきた判断価値からくるものである。例えば好きな異性だからこそ、リビドーに駆られることがあり、それは好きな異性を大事にしたいという人工的な欲求も踏まえたイドである。

 こう考えていくと、人間の本能的な部分を指すイドも、人生の中で変化していくものであり、本能的な欲求だから自然的な、言い換えれば野蛮的な欲求とは簡単に表せられないものだと考えさせられる。生物としての自然的な欲求と、人工的な人生の相関で本能の在り方も変わってくるのではないかと考えている。 

 人間に限らずだが、生物としての欲求からは逃れられない。しかし培ってきた人生の中での抑制はできる。だが、その中で、培ってきた人生における人工的な考慮から、さらに欲求がでてくることもある。であれば、衝動や欲求は、生物的にも人工的にも人間の人生における絶対条件に等しいとも言える。

 それは「喜怒哀楽」という心理はすべての人にあるが、その原因は人それぞれであるのがいい例でもある。

 であれば、イド的な深層心理も、人生の経験や教養によりコーティングして、その欲求を上手に満たしていくことも、人生を下らなくも面白くする手法であると考える。

喜怒哀楽の表現。
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