「人が最悪になるとき、自分が偉いと思った人達。最悪というか魅力的じゃない。」・・・イチロー
「自己肯定感」・・・最近ではよく大事だと思われている感覚である。自己肯定感を上げる本等は書店に行けば結構あるし、ネットで見ても結構ある。現代において「自己肯定感」は大事な感覚らしい。
しかし、時折思う。「自己肯定感が高すぎるのもいかがなものか?」と。
自己肯定感が低すぎて、「他人に合うのもおっくう」「憂鬱になる」「生きているのが辛い」と思ってしまう人はもちろん多少なりとも自己肯定感を上げたほうがいいと思う。しかし、そうでもない人が多数いる。
何故か周りの評価を気にせず自己肯定感が高い人もいるわけである。自己肯定感が強すぎて人を見下す人もいる。そういう人に「魅力を感じるか?」と言われれば、私は感じない。
上記のイチロー選手の名言のように、「自分が偉い」と思う自己肯定感が強い人に対して、少なくとも「魅力は感じない」ということである。
もともと、「日本人は謙虚であり自己肯定感が低い民族である」というような話を聞くことがあるが、「謙虚」≒「自己肯定感が低い」と言うわけではない。どちらかというと「偉ぶらない」Or「主張をしない」≒「自己肯定感が低い」と海外からは認識されたのかもしれない。
肯定感の対義語は否定感である。では自己否定感が必要かというとそうではない。何故なら否定はただ改善もなくダメだと思うことであるからだ。
自己否定をしてしまうと、不安や寂しさなどの負のストレスが溜まっていき、結果、精神を病んでしまう可能性が高くなる。
では、どういう感覚が必要になるかというと、私自身は「自己批判感」という感覚が大事なのだと考えている。
以前、「批判と否定の違い」を記載したことがあると思うが、批判は「本当にそれでいいのか?」のように疑い、解決策を見出そうとするものであり、批判は「それはダメだ」と、解決策はないがダメと決めつけることである。
哲学という学問は疑うことから始まる学問である。普段の生活の中であらゆることに対して、「本当に正しいのか?」を突き詰めていくものである。疑うからこそ「正解を導き出そう」とするものである。
また、疑うからこそ「より良い回答を導き出す」とするものであり、「疑うは学の基」と私自身は考えており、だからこそ哲学を言い換えれば「批判する学問」と言える。
それに加え、様々な分野で疑い批判するからこそ、数学や社会学、理科や国語等も進化してきた。哲学は全般的なことに「まず疑う」ことから始まる学問であるが故に「学問の根源」等と呼ばれるのである。
話がそれたが、私が言いたいことはとどのつまり、「自分は本当に今のままでいいのか?」「自分の考えは正しいのか?」「自分が今していることは本当に正しいことなのか?」という、自分を疑い、必要であれば自分を正すという
「自己批判感が人間には必要なのではないか?」ということである。
以前「性弱説」という、「人間は性質的に楽をしたがる」という記事を書いた。人間は社会的生物であり、集団を作る。集団を作れば自ずと偉い人が出てくる。そうなると、偉い人というのは基本的に堕落しやすい。
中国の王朝歴史を知ればわかりやすい。まあ、中国に限らずだが・・・皇帝になるまではどの王朝の皇帝も名君であったはずである。何故なら馬鹿では皇帝になれないから。
ただ、富と権力を手中に収めた皇帝が滅びた理由で多いものが「豪華な暮らしに加えて、美女」である。
頭もよく運動神経もあり、部下の心を奪うほどのカリスマがある人物でも、偉くなると堕落してしまうということである。
そして、この現象は各小さい組織の中でも同じ現象が容易に起こりうる。どこの学校でも会社でも偉ぶる人がいるからだ。しかし、そういう人に「人望」自体は集まらない。上辺だけの人望はあるかもしれないが・・・
しかし、「人望」がある人もいる。それは常に「自分が正しいか?」という自己批判感を持って自分を正しい方向へ向かわせようとする人である。
中国の歴史でいえば「貞観政要」という本の基になった唐の時代の「太宗李世民」という皇帝は、「自分の考えが正しいか?」ということを常に部下と議論して、自分の考えを正しいほうに持っていっていたため非常に人望があったと言われている。
また、唐の時代は300年間平和な時代が続く。自己批判感を持ち、自己批判に立ち向かうということは身分が高くなればなるほど本来必要なものということである。
ちなみに、この「貞観政要」という本を読んでいた日本人がいる。「徳川家康」である。徳川の世も唐の時代と同じく300年間続いている。
万物は変化していくものであり、人間も例外ではない。ただ、人間とその他動物を分ける指標の1つとなるものは「自分の精神的な面の成長ができる」ということだと私は思う。
自己を肯定するのも悪いというわけではない。自己肯定感が強すぎると「傍若無人」になってしまう可能性がある。まあ、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」ということある。
自分を「否定」するのではなく「批判」することで、「自分が本当に正しいか?」ということを突き詰めていくこと。言い換えれば「人間的成長をしてこと」である。
自己批判感を持つことは自分の成長を促すはずである。その自己批判感のせいで辛いことがあるかもしれない。しかし、人生のトータルで考えた際により面白い人生を生きるためには自己批判感というのは大事な感じ方・考え方である。