「自らを助けないものを救おうとしても無駄だ。はしごを自分ので登る意思のないものを他人が押し上げることはできない。」・・・アンドリュー・カーネギー
「偉大な人々は目標を持ち、そうでない人々は願望を持つ」・・・ルイ・パスツール
人間に限らずだと思うが、基本的に生物は意思より願望が先立つ。私の持論ではあるが、生物全般その生物が持つ脳に行動を支配されており、脳の目的は「生きること・子孫を残すこと」を第1としており、それ以外のことは怠けたいと考えているため、ヒューマニズム的な意思よりも、本能的願望が先立つものだと考えている。
しかし、人間の中には願望よりも意思を先だだせる事が出来る人もいるのも事実である。脳科学的には、「人間らしいことを考える前頭葉が本能的なことを欲する大脳辺縁系より強い」と言えばそれまでであるが、意志が願望よりも先立つのは何故か?と考えてしまう。
意志と願望を言い換えると、「決意と本能」と置き換えても過言ではない。そして、決意は人間的な行動を促すものであり、本能は動物的行動を促すものである。
「出世をする!」「リーダーになる!」等は人間ならではの決意のようにも思えるが、ただ「他の人より偉くなりたい」という様な内容であれば、サルがリーダーになりたいと思うような動物的本能に近い気がする。
「出世をして会社を変える!」「リーダーになって、あるミッションを成功させたい!」というような内容であれば、動物的本能というより人間的決意になる。
意志とは人間的なビジョンを持った時に起きる行動であり、願望とは動物的に目先の損得にとらわれた行動とも表すことができる。それは、「意思は目標が先立ち願望は我儘が先立つものだからではないか?」と考えている。
人間(サピエンス)は約7万年前の「認知革命」により「虚構の共有」ができるようになったと以前も記載した。「虚構の共有」の例を挙げれば宗教がいい例である。
ダンバー数(これも以前記載している)と言って、人間がルールや法、ストーリー等を共有しない場合にまとめられる人数は150人程度と言われている。実際に軍隊等でも使われている数字らしい。
しかし、キリスト教徒は現在22.5億人いると言われており、イスラム教は14.3億人いると言われている。すべてのキリスト教徒やイスラム教徒がまとまっているわけではないが、150人よりは明らかに多いことが分かる。
「ゴッド」や「アッラー」、「聖書」や「クルアーン」を信じているが故、キリスト教徒やイスラム教徒が莫大な人口を誇っているのである。
そこでストーリーを信じることが驚異的な意思の力を生むと考えたときに、これは個人のストーリーにも当てはまるのではないか?と私自身は考えている。
その個人的なストーリーは目標があって初めて成り立つものである。目標を言い換えれば「成りたい自分」ということであり、「成りたい自分」に成るためには、そこに向かって努力と工夫をしなければならない。努力と工夫をしたからといって「成りたい自分」に成れるかは分からないが、努力と工夫をしないと確実になれない。
努力と工夫をしていくことは、意志の力であり願望の力ではない。はそう考えていくと、願望より意思が先立つという条件の一つには、
自分自身の人生の「成りたい自分」ということに関してのストーリーを描けているか?
ということが重要であるのではないか?と考えられるわけである。まあ、私の持論ではあるが・・・
例えば、経営哲学者で有名な青木仁志氏は人生の順序を5段階に分けたという話がある。
1段階「学習の段階」:17歳~27歳
2段階「指導力開発の段階」:28歳~35歳
3段階「挑戦の段階」:36歳~45歳
4段階「富の形成の段階」:46歳~
5段階「社会還元の段階」
また、青木仁志氏は曰く
「成功は自分から始まり、他の人への具体的な貢献で完成する」
青木仁志氏は人生や成功のストーリーを自分で描いているからこそ、願望より意思の力が勝っていおり成功しているのではないか?と私自身は考えている。
まあ、私自身も自分の人生のストーリーをきちんと描けているわけではなく、意志より願望が先立つことがよくある。
ただ、その中でも自分なりの「成りたい自分」へのストーリーを描けるように努力と工夫はしているつもりである。
自分自身のストーリーを描きそのストーリーを信じることで突き進む事で、願望よりも意思が勝る人生・・・その方が人生が下らなかったとしても確実に面白く人生を生きれるはずである。