「誰かのために生きる事のみ、生きる価値がある・」・・・アルベルト・アインシュタイン」
「真の富とは道徳に基づくものでなければ決して長くは続かない」・・・渋沢栄一
人間の脳は「幸福を得る」ということを考えるより「生きる」ことを最優先して作られている。「生きる」ということを最優先にしているため、基本的には「不安を感じる」「恐怖を感じる」「心配する」等の悲観的傾向が強い。
また、人間の体と脳は「狩猟採集時代までの進化」で止まっており、人類は農業革命や産業革命を起こし、現在では70億以上の種の繁栄に成功させたが、その分不具合も生じている。
農業が始まり、身体的には「ヘルニア」や「変形性関節症」等が増え、産業革命を経た今でもこれらの疾患は増え続けている。精神的な「鬱病」を含む気分障害の疾患も年々増えているという。
しかし、人間は「幸せに生きる」という命題を背負っているのも事実である。誰一人として「不幸に生きたい」と思う人はいないからである。
では、「幸せとは何か?」という問いに対して、幸せになるため内容は人それぞれ違えど、「幸せだ」と思えることであることは間違いない。
そして、幸せに感じるためには「ドーパミン」や「オキシトシン」、「セロトニン」や「エンドルフィン」等のいわゆる「幸福ホルモン」が分泌されることが必要である。
それらの成分が分泌されるためには色々な条件があるが、「他人を喜ばせること」や「他人のために行動を起こすこと」等、「利他的」な行動をすると、「ドーパミン」や「オキシトシン」等のホルモンが出て、幸福になれるらしい。
人間(サピエンス)は約7万年前に認知革命を起こし、「虚構の共有」により、強力な集団を作れるようになったため、非常に強い力を発揮し様々な生物を滅ぼし、最も種の繁栄に成功したと言っても過言ではない。
「虚構の共有」とは、古代では神話等を信じることに始まり、現代ではお金等を信じることで莫大な量の人間が同じ情報を共有できることである。現在でも人間が成功するには様々なことを共有することで集団となることが条件ともいえる。
私たちの先祖は「集団」になることで力を発揮できるように進化した。その進化を遂げるために何が必要であったか?という問いの1つに「利他的行動」が上げられるらしい。
集団から社会を作り、人間は社会的動物とも言われている。社会を作るにあたっては様々なことが試みられてきた。掟から法になり、宗教や論語から道徳になり、様々な学問が発達してい現在の秩序がある。
それらの根底に必要不可欠な考え方の1つが「利他的」ということだったのである。
人間は集団的(社会的)な行動をとるために、どうしても他人のために行動することが必要であった。だからこそ、長い進化過程の中で他人のために行動をとると、「ドーパミン」や「オキシトシン」等のホルモンが出るようになったと考えられる。
脳は「生きる」ということを最優先する。そこで「生きる」ために、様々なホルモンや感情を使い身体を動かし、達成出来たら快楽を得られるような仕組みを作りだしたと考えられる。
良い睡眠をとったり日の光を浴びるとセロトニンが分泌されたり、痛みがあるとエンドルフィンが分泌されたり、目標を達成したらドーパミンが分泌されたり、楽しい会話をすることでオキシトシンが分泌されたりする。
それらは、脳が「生きる」ために必要なことをしたことに対しての本能的なご褒美と言っても過言ではない。その中の1つが「利他的行動」をとることで、ドーパミンやオキシトシン等が分泌されて、ある種の「幸福」を人間は感じる仕組みにできているらしい。
そして、人間はこのことを本能的に知っているからこそ、キリスト教や仏教などの教えや論語などの道徳的教養に「人のために・・・」という教えができたのだと、私は考えている。
人間は意外に利己的なだけであるとさほど頑張れないようにできている気がする。これは私の主観であるが・・・
例えば、スポーツで1位になりたい、勉強で1位になりたい、将来の夢は・・・ETCに関して、おそらく事故の喜びだけでなく、家族や友人、恋人等を喜ばせたいという「利他的思想」があるから、頑張れるのではないだろうか?
もちろん、「利己的」なことを否定するつもりはない。私自身の行動原理思想は「自分のため」である。非常に「利己的」に動いている人間と言っても過言ではない。
ただ、私自身は「利他的行動も利己的行動になる」という根本思想がある。私の行動が人に喜んでもらえれば、私自身が自分の価値観を感じられる。故に利他的が利己的に転じるということが理解できるのである。
そして、「利他的な行動」は評価を生む。いわゆる「承認の欲求」が満たされるわけだ。承認の欲求が満たされることで、ドーパミンやオキシトシン等のホルモンが分泌される仕組みらしい。
簡単に言い換えれば、「他人のため」⇒「自分のため」の図式が成り立つわけである。ただ、逆の「自分のため」⇒「他人のため」というのは、成り立たないわけではないが成り立ちにくい。
上記で記載したような、誰かを喜ばせるための「自分のため」であれば、成り立ち得るが、「自分のためのみ」であるとそこにあまり達成感はなく、評価を生まないため承認されず、ドーパミンやオキシトシン等の分泌量が減るというわけである。
「他人のため」・・・たかが「綺麗事」と私も若い時はそういう風に考えていた。しかし、いつの頃からかは定かではないが、「他人がいてこその自分」と思えるようになり、「利他的行動」の重要性が分かってきた気がする。
まあ・・・私の場合は「利己的な利他的」なものであるが・・・
「利他的」というのはただの「綺麗事」ではなく、人間が生きるにあたり必要不可欠な思想であり、それゆえに幸福ホルモンも分泌される。「利他的行動」は幸福感をもたらす人間らしい本能と言っても過言ではないわけである。
であれば・・・すべてを利他的とは言わないが、利他的に行動することは利己的にも変換され、人生を面白く生きるための1つのスパイスになりえるものである。