哲学ブログ

承認の欲求~コントロール~

「承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がなく、必要がありません」
「自尊心や承認欲求を満たそうとしてはいけない。我々は他者の期待を満たすために生きているのではない。」・・・アルフレッド・アドラー

 「承認の欲求」・・・マズローの欲求5段階説の中で4番目の欲求であり老若男女問わず誰もが持っている欲求である。現代においてはこの承認の欲求が満たされず、苦しんでいる人が多いように思う。

マズローの欲求5段階

 もちろん現代だけでなく、古今東西問わず昔から人間はこの承認の欲求を満たそうとしてきたことは事実である。しかし、昔以上にやはり現代においては、この欲求を満たすための願望が強いと思う。

マ ズローの欲求5段階説説の1番は「生理的欲求である」。いわゆる「食欲・性欲・睡眠欲」等である。そして2番目が「安全欲求」である。人間の欲求と言うよりは生物全般の欲求と言っても過言ではない。そして、3番目が社会的欲求である。集団に属する欲求とも解釈できる。

 昔は、生理的欲求や安全欲求を満たすことすら難しかった。たかだか1世紀程前ですら、多くの人が満たせなかったのである。1900年ごろは、日本では家族の食い扶持を減らすために幼い子供が「丁稚奉公」として住み込みで働きに出された。

 私の祖父母世代は大東亜戦争により、徴兵や空襲、食糧不足・・・ETC、劣悪な条件により「生理的欲求」や「安全欲求」を満たすことさえ難しかった。

 この2つの欲求を満たすためにも、人類は集団で生活するすべを身に着けてきた。人類は単体では大した力がない。しかし集団になり、集団の意思疎通が統一され、集団が1つの力を持つと異常な程力を発揮する生物に進化した。

 ただ、集団から外れてしまうと単体ではない大した力がない。故に集団に属さないと生きていけなかったため、社会的欲求が本能として刷り込まれていると言っても過言ではない。

 殆どの人が「生理的欲求」と「安全欲求」を手に入れる「社会」を作るために、人類が誕生してから1900年代半ばまでは時間がかかり、人類は相当の時間を費やしたのである。(人類は約500万年前に誕生したと言われ、私たちの直属の先祖であるサピエンスは約20万年前に誕生したと言われている。)

 現代では社会機能がある程度確立しているため、国民は社会の1人として承認されており、「生理的欲求」、「安全欲求」、「社会的欲求」は、ほとんどの国が保証してくれると言っても過言ではない。もちろん、国によっての差はあるが。

 脳はまずは「生きること」を優先する。「生理的欲求」・「安全欲求」・「社会的欲求」は生きるために必須であり、その3つを満たすことが最も人類の重要なミッションと言える。そのミッションができなければ生きられないため、承認の欲求どころではないはずである。

 ただ、現代においては「生理的欲求」と「安全欲求」は生まれたときから殆どの人が、与えられているのである。「社会的欲求」も国民の1人として保障されており、「生理的欲求」や「安全欲求」よりは満たされない人もいるとは思うが、多くの人は社会から与えられている。

 こう考えると、社会構築がいかに重要なのか考えさせられる。

 この3つの欲求は、現代人は与えられているためさほど考えたことはない人も多い気がする。しかし、3つの欲求の上にある「承認の欲求」や「自己実現の欲求」は人から与えられるのではなく、個人個人が何とかしないと満たされない欲求である。

 おそらく、今後も色々なテクノロジーが進む中でも、「承認の欲求」以上の欲求は自分で作っていかないと手に入らないと、私自身は考えている。しかし、この「承認の欲求」は誰もが満たしたいはずなのに、満たす努力をしていない人が多い気がする。

 満たす努力をしていないというよりも、満たす努力の仕方が間違っていると言い換えてもよい気がする。

 例えば、承認して欲しいがために「不満を語る人」や「自慢する人」、「見栄を張る人」が多い。しかし、そんな人がいたら周りはその人を承認するだろうか・・・あまりしない気がする。「承認の欲求」を満たしたいがための行動が真逆に向かっていると言ってもいい。(あくまで私の推測であるが・・・)

 そもそも、「承認の欲求」を満たすことで人は幸せになるのだろうか?という疑問がある。私自身は「承認の欲求」に関しては、「満たすもの」と言うよりは「あまり気にしないもの」と考えるほうが、しっくりくる。

 もちろん、メチャクチャいろんな人から疎外されている場合等は満たす場合も必要である。ただ、「承認の欲求」は、満たそうと思えば思うほど苦しくなる気がする。おそらく、きりがないからだと思う。

 例えば「生理的欲求」で考えると、食欲は食べれば満たされるが、食べすぎると苦しくなるため度合いを自分で知ることができる。「安全の欲求」や「社会的欲求」は与えられていれば、深く考えることもない。しかし、「承認の欲求」は出会う人すべてに求めるときりがない。

 そして、「承認の欲求」が満たされる条件は、自分の意識の中で「満たされた」と思うしかないのであり、これが中々難しいのではないかと個人的には考えている。であれば、「気にならない」方が人生楽に生きれる気がする。

 私自身が考える「承認の欲求」とうまく付き合うための方法としては、2つある。

 1つは「色々な人を承認する」ことである。色々な人を承認することができれば、色々な人から承認されるものであることに加え、「承認はされることではなくすること」と考えると、自分に対する承認は結構どうでもよくなる。

 「人にやさしくするからこそ人からやさしくされる」、「人にやさしくすることで他者からのやさしさはあまり気にならない」みたいな感じである。なんか、分かりづらくて申し訳ない・・・

 もう1つは、仏教の世界の考えになるが、「そもそも自分なんてない」というような境地に立つことである。いわゆる「無我の境地」というやつだ。

 「『自分がいるのだ』という慢心をおさえよ。これこそ最上の安楽である」・・・ブッダ

 自分なんてないから、そもそも「承認の欲求」が成り立たないわけである。私は「無我の境地」には到底立てない俗物であるが、なんとなくわかる気がしないでもない。

 「自分は何者なのか?」みたいなことも考え大学では哲学を専攻したが、そもそも「自分は何者でもない」と感じている。まあ・・・「無我」ってわけじゃないが・・・

 「承認の欲求」・・・もしかしたら人間にとって1番厄介なよっきゅであるかもしれない。その欲求とうまく付き合い、コントロールできれば、色々と悩むこともなく、人生が面白く生きれると思う。

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yu-sinkai

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