「すべての人間が平等であるひとつの場所がある・・・死ぬときである。その場合、彼らはすべて雫である。」・・・ウィリアム・サムナー
「人間はもともと不平等な性質に生まれついている。それ故、彼らを平等であるように取り扱おうとしも無益だ」・・・フロード
私が小学生の時に、校長先生が「皆さん・・・人間が等しく平等な物って何でしょう?」みたいな質問をした。
ある生徒が「空気」と答え、校長先生は「空気は場所によって綺麗だったり汚かったりします。正解は『時間』です。1日24時間はみんなに等しく与えられています。ただ、使い方が人それぞれで、良くも悪くもなります。」みたいなことを話していた。
当時は「なるほど!」と思ったものだが、そもそも「平等とは?」と考えた際に、本当に平等なものがあるのか?と疑問に思う。
質量的な事や事象的なことで考えると確かに平等は存在する。AさんとBさんを2人雇って、2人とも時給千円とすると、平等である。1日の時間は誰でも24時間であり平等である。「死」は誰にでも訪れるものであり、その事象も平等である。
しかし、人間は質量や事象よりも個人個人の解釈が先立つと私は考えている。個人個人の解釈という考えを持つと、平等は存在しない。
例えば、先ほどのAさんとBさんが同じ時給千円でも、仕事の質が全く同じという事は無いので、ある意味AさんとBさんの仕事の質を比べると、どちらかが得をしてどちらかが損をしていることになる。
時間に関しても、24時間という時間の量は平等でも、その時間の使い方は人それぞれの環境によっても違う。勉強をしたいと思っていても、両親がどちらか一人おらず、家庭のことをしないといけない子供もいれば、塾に通ったり、家庭教師がついている子供もいる。
戦争や発展途上国で学べない子もいれば、先進国で裕福な子供もいる。そうなると、時間という質量は同じでも、その使い方が自分本位でなく環境に左右されるものでもあり、そうなると平等とは言い難い。
「死」という事象も確かに誰にでも訪れる。「メメントモリ(死を想う)」という事について、中世ヨーロッパでは、死神が金持ちも貧乏人も平等に死の世界に連れていく絵画がある。それを見ると「死」は平等と思うかもしれない。
しかし、苦しんで死ぬものもいれば、老衰で安らかに死ぬ人もいる。私は老人施設で働いているので、老人の死に立ち会うことはよくある。その中でも、誰も駆けつけづ、1人で死ぬ人もいれば、家族みんなが泊まりに来て、家族の手を握って人もいる。
若く癌等で叫びながら死ぬ人や、生まれてすぐに死ぬ人もいる。中には「平知盛」の様に
「見るべきものは見つ!」
と言い、自分の死に納得して死ぬ人もいる。そう考えていくと、やはり「死」も平等ではない。
私個人の考えでは、人間の世の中にそもそも「平等」というものは存在しないと考えている。食事に関しても、同じ食事をしても個人個人、消化酵素が違ったり、体質によってその栄養の吸収率は変わる。
2人の人間に同じ言葉を・・・例えば「頑張れ」といったとっしても、片方は「応援してもらって嬉しい」と思うかもしれないが、もう片方は「これ以上頑張れって言うのかよ!」と思う人もいる。
2人で同じ距離を走っても、筋肉の痛み方やつき方、細かいカロリー消費も違う。要するに、すべてにおいて平等などありえないのだ。
ただ、だからと言って、私は「世の中が不平等で不公平という事で、不満がある!」と言いたいわけではない。「平等というものは基本的に存在しない!」という事を、肯定的に捉えているのである。
「隣の芝生は青く見える」
と言う諺があるが、それは「平等」という思考からできたものだと思う。「平等」という思考から、同じ身分の人間同士なのに、隣家の芝の方が青いと羨んでしまうである。全く同じ芝など存在しないが、平等という発想から、羨んでしまうものなのである。
「あの人はいいなぁ~」なんて言葉は、私はよく耳にする(私の周りだけがそうなのかもしれないが)。それは言い換えれば、「同じ人間で平等であるはずなのに、あの人は得をしている。」のような発想である。
「あの人」がどれだけ努力をしたり、我慢をしたりしているかは、考慮に入らない結果思考である。それは、やはり些かどうかと感じる。
人間に限らずではあるが、基本的に世の中は「不平等」であり、それが「真理」の1つであると、私は考えている。
ただ、そう考えると、あまり人を羨む事もなくなるのも事実である。不平等が当たり前と思えば、それが自分の人生における「普通」となるからである。
私よりも贅沢な暮らしをしている人もいれば、貧乏な暮らしをしている人も大勢いる。同じような経済環境でも、私よりお金に困っている人もいれば困っていない人もいる。
そう・・・「不平等という概念こそが当たり前」なのである。そして私が考える上で「平等という真理」が一つだけある。それが、「すべてみな不平等という現実」である。「不平等」がすべてにあるという事のみが「平等」なのである。
ただ、「不平等が当たり前」と考えることができると、他人を羨むことが減り、些かではあるかもしれないが、人生を下らなくも面白くするコツになると、私自身は勝手に考えている。