「ある者にぴったりの靴は、他のものにとってはきつい。人生において、すべての人間に適したレシピなどない。」・・・ユング
「人生とは自分を見つけることではない。人生とは自分を創ることである。」・・・ジョージ・バーナード・ショー
本質とは何か?
言わずもながであるが、哲学の根源思想である。「万物の根源とは何か?」と古代ギリシャ哲学者は考えた。言い換えれば「万物の本質とは何か?」とも言える。
古代ギリシャ哲学者たちは「万物の根源は水である。(タレス)」・「万物の根源は火である。(ヘラクレイトス)」・「万物は、火、水、土、空気からなる(エンペドクレス)」・「万物の根源は数である。(ピタゴラス)」・「万物の根源は原子である。(デモクリトス)」等と考えた。
哲学は、「普遍的かつ本質的を追究する学問である。」そして、その「普遍的かつ本質的」を、数学や幾何学、科学や化学等ではなく、人間の意識や感情、文化や風習等に当てはめていったものであると私は解釈している。だからこそ「人間はなぜ?」と言う議題に私自身はよくぶち当たる。
「人間の本質とは?」・・・考えた時に、動物的な主訴であれば分かりやすい。それは「生きるため・種を残すため」であり、極論を言うと「食う・寝る・やる」の三大欲求を満たすために生きていると、考えることはたやすい。
この三大欲求は確かに人間にも大きな欲求ではあるが、人間はさらに欲求を深く追求する事と幅広い欲求をつくることに長けていると思う。
例えば、「ただ食う」ではなく、「美味を追い求める」ということや、「ただ寝る」だけでなく「安眠を研究する」ということ、「ただやる」だけでなく「如何に気持ちよくなれるかを追究する」等、欲求を深く追い求めることをしてきた。
また、様々な娯楽を発明し、それを遊びという視点から芸術という視点まで様々なジャンルに興味を持ち、生きることだけでは満足せず、様々な欲求をつくってきた。
だからこそ「人間とは?」と言う問いは難しく、人間の本質が分からなくなる要因になる。古代より「人間とは?」という題目に対して「○○であるべき」と言う回答が多いのもうなずける。結局「人間の本質」は「限定」出来るものではないと言う事かもしれない。
「諸行無常」、「色即是空」、「万物は流転す」・・・これらの先達の言葉自体が真理であるとするならば、「人間は変わっていくもの」、「実体は無い者」等になることから、人間の本質を考えていくと全体的な傾向はあるとしても、「個々で本質が変わる」ということが正しいかもしれない・・・と考えることがある。
哲学は「普遍的な真理」を追究する学問だと私自身は解釈している。しかし、人間は同じホモサピエンスでも「十人十色」で「千差万別」と言う現象はその他動物でも比較にならないくらい当てはまる。そう考えていくと、「人間とは?」と言う本質を追い求めるより「目の前の人の本質とは?」を追い求める方が正解なのかもしれない。
言い換えれば、「個人的な本質とは?」である。
もちろん、人間の主な傾向を理解したうえであったり、「マズローの五段階欲求」等の理論も理解したうえである。
人間は基本的に「グルーピング本能」があると私個人は考えている、様々なカテゴリーに分けて物事を対処してきたからだと思う。しかし、何でもグルーピング化して、個々のグループとしての傾向であったり本質であったりを考えたがり過ぎると、個と言う本質が見えなくなってしまう気がする。
こういう考え方は20歳代の自分には出来なかった。年を喰って考え方が多少は柔軟になった。
「木を見て森を見ない」と言うセリフはよくあるが「森を見て木をみない」のもまたどうかと思う。「木があって森」、「森があるから木がある」・・・本質も人間一人一人の「個々の本質」を考えていくのも、人生を面白くする考えだと思う。