ヒエラルキーとは人間の物質的な事より想像的文化からなる、ピラミッド型の階級社会のような物である。制度として分かりやすいのは「カースト制度」「士農工商」「奴隷」等である。そして、私たちの身近なところでは、「係長<課長<次長<部長<社長」のような役職も同じような感じである。
もともとは、ローマ・カトリック教会における天使の序列だったらしい。そこから、その序列を人間に当てはめるようになり。身分等の階層秩序を指すようになった。
動物にも同じような仕組みはある。しかし、それはほとんどの場合トップ(リーダー)とそれ以下に区分される。そして、その序列は生物学的な強さに起因するものである。
しかし、人間のヒエラルキーは想像上の産物の上で成り立ち、主に政治等に利用されてきた。動物社会におけるヒエラルキーが生物学的上下関係としたら、人間社会におけるヒエラルキーは文化的差別と言っても過言ではない。特にヒエラルキーにおいて世界的に有名なのはヒンドゥー教の「カースト制度」である。
ヒンドゥー教の創造神話は、「プルシャ」という原初の人間の体から神々が世界を作り上げたとされている。そして、「太陽」はプルシャの頭から、月は脳から、「バラモン(僧侶:ヒエラルキーのトップの人)」は口から、「クシャトリア(武士・戦士)」は腕から、「ヴァイシャ(農民と奴隷)」は腿から、「シュードラ(奴隷)」は脚から造り出されたとされている。
人間は生まれながらに身分が違うという事を、神話によって説明していたという事である。また、メソポタミア文明におけるハムラビ法典では、有名な言葉である「目には目を・歯には歯を」という事が記されている。
これは、やられたらやり返せという事ではない。「目をやられたならやられた分の目までで止めなさい、目をやられたからと言って命まで奪ってはいけない」「等倍返しで止めよ」等の、秩序を守るための法典である。しかし、そこには「上層自由人」、「一般自由人」、「奴隷」という、三段階のヒエラルキーが存在する。
そして、その同じヒエラルキーに属している身分であれば「等倍返し」であるが、身分が違えば等倍返しではなくなる。例えば、「上層自由人が同じ身分の上層自由人の目をつぶしたら、その者の目も潰されるものとする。」とあるが、「上層自由人が一般自由人の目を潰したり、骨を折ったりしたら、そのものは銀60シェケルを量り、与えるものとする」ともある。
上層自由人の目の価値はお金では測れないが、一般自由人の目の価値は銀60シェケルというわけである。ただ、上層も一般も奴隷も、生物学的な意味では同じ人間である。しかし、人間は想像の産物により、この様なヒエラルキーを作り差別していた。
この現象は世界各国にあり、またカテゴリーも様々な形で起きていた。
日本でも、天皇を中心とし、その下に貴族がいて、その下が武士で、その下が商人や農民という時代があり、さらに江戸時代では「人に非ず」という身分である「穢多・非人」という身分までいた。これは、農民や商人の身分の下の階級を作ることで、農民や商人の不満を無くすための階級であったとされている。
白人が黒人や黄色人種を差別していたこともある。特に黒人に対しては奴隷制度まで出来上がったほどだ。肌の色が違うというだけで、差別し、奴隷制度が廃止になってもまだそのヒエラルキーは続いた。その当時の白人は、黒人は知能的に白人より劣っていると信じていたのである。それは生物学的にではなく、妄想的にである。
男女差別も同じような物であり、中国でも古い文献の中には王の妻が女の子を産んで、運が悪かった等と言うものが残っていたり、一人っ子政策の中で女が生まれると女の子の誕生を不運とみなす過程が多かったらしく、中には生まれたばかりの女の子を殺すという事もあったらしい。
現代における私たちのほとんどの人が、この様なヒエラルキーはおかしいという事が分かるわけである。何故なら、人権の平等や宗教等の自由、幸福の追求の権利等が神様からではなく、国から国民として与えられているからである。
そして、私たちにとってヒエラルキーは無意味な、あってはならないものであると考えるかもしれない。しかし、形が違うだけで今も同じように残っている思想でもある。
「スクールカースト」という言葉があるが、学校のクラスや学級の中で、いじめられっ子、少しいじめられる子、いじめられない子、いじめる子等の謎の階級が時折あるのが学校である。もちろんすべての学校であるわけではない。
また、冒頭でヒエラルキーの説明に「係長<課長<次長<部長<社長」という表現をしたが、これはほとんどの会社でもある。 そして、グループが出来れば、何となく人気や人望がある人が現れ、嫌われる人も現れ、特にどちらでもない人も現れ、ある種の謎のヒエラルキーが無意識に形成されてしまう。
しかし、ヒエラルキーがないと組織が成り立たないという事も事実だと、私は考えている。私たち人間の祖先であるサピエンスは、認知革命以降に神話等による「虚構の共有」をそれぞれの国や地域で行い、そのため、千や万という単位の仲間を統制することに成功した。
その中で、千や万という単位の人間が同じ身分であると不都合が生じたのだろう。ルールが決めにくかったり、組織的な判断が難しかったり、争いがおきたり等あったのだと思う。そこで、ヒエラルキーという虚構の共有が混ざることで、巨大な組織をまとめたのである・・・と私は解釈している・
そして、それは人間(サピエンス)的本能の産物であるとも思う。ただ、人工的な文化の変化は著しく、殆どの現代人はヒエラルキーを認めていないようにも思う。企業においても「トップダウン式」より「ボトムアップ式」を推奨している企業は多い。
社会主義より民主主義が支持されており、実際は民主主義の方が成功しているのは事実である。しかし、自由主義や民主主義、平等な人権がある世の中でも、無意識に何かしらのヒエラルキーが存在している。
組織を創ったり動かしたりする際は、このヒエラルキーがうまく機能しないと、組織はまとまりにくいものであるからこそ、無意識の世界でもヒエラルキーが存在するものなのかもしれない。
ただ、人工的な変化により、昔のヒエラルキーは「差別的」なものに対し、現在のヒエラルキーは「区別的(多少の差別は含むが)」なものに変化してる面があると思う。
人間社会には、意識的にも無意識的にも身分的、経済的、区別的、差別的等のヒエラルキーがどうしても存在してしまう。それは人間における普遍的産物の1つである。そのことを理解して、自分がどのような立ち位置にいたいかを分かっていた方が、幾何かは人生が面白くなるかもしれない。