哲学ブログ

人間の価値の考え方~数字or感情~

「生きることの意味と価値について問いかけるようになると、我々は狂ってしまう。何しろ、意味も価値も客観的に実在するものではないのだから」・・・ジークムント・フロイト

「人は死んでも、その人の影響は死ぬことは無い。」 ・・・キング牧師

 「生きる意味とは何なのだろう?」、「自分の存在価値とは?」等の「問」は私が哲学を学ぼうとしたきっかけであり、また今では「ニヒリズム的な答え」は出ているのだが、まだまだ問いつめて行きたい問である。

 「命の価値」を考えた時に、「価値」というものに関して、まず人は「数値化」したがる。それは確かに間違いではない。ただ、「価値の数値化」は現在では「貨幣制度」からなるため、簡単に言えば、「働いて得た収入=自分の価値」という事等に着眼点を置くことになってしまうことが多い。

 「大学卒・大学院卒」がフルタイムで60歳まで働いた場合、「約2億4千万」平均で稼ぐらしい。もちろん手取りになるとそれ以下になるし、平均であるので、中央値をとるとこれ以下になる。その後年金を仮に月約10万円(国民年金と厚生年金を足して割った数字)として、65歳から90歳まで生きたとすると、年金で25×12×10万=3千万であり、「働いて稼いだ金額(2億4千万)+年金(3千万)=2億7千万=人間の価値」みたいな数式になってしまう。

 これでいいのか?という疑問は些か誰にでもあるのではないか?

 また、「命の価値=役に立つこと」という考えもあると思う。「役に立つ」という事も貨幣に限らず、何かしらの行動で貢献をしている事に起因している。しかし、それでは「役に立つ行動が出来ない=価値がない」となってしまう。

 2016年に神奈川県の相模原で障害者施設殺人事件があった。その動機は「意思疎通のできない重度の障害者は、不幸かつ社会に不要な存在である」という発想から成った。「命の価値」=「お金」や「命の価値」=「行動的な貢献」と考えるからこそ、上記のような事件が起きる。

 以前、養老孟子氏の「1人称の死・2人称の死・3人称の死」という事を記載したが、まず人間における死にとって重要なのは「2人称の死」であるとその時記載した。この場合の2人称は自分の身の回りの人という意味であり、断定的な「you」を指すものではない。「生」も一緒であり、自分に関わる生(2人称の生)がまず大事だと私は考えている。もちろん、その中でも好き嫌いはあるが・・・

 YouTuberのDaiGo氏が「人間の命より、猫の命が大事」という話をした事があり炎上したが、それは言い換えれば、ある意味「3人称の生より、2人称の生の方が大事」と思う事に類似していると思う。(人間と猫という生物自体を比べていることはまた違う事ではあるが・・・)ただ、知らない人間の命より愛しているペットの命の方が大事というのは、倫理的に良くないかもしれないが、感覚として分かることではないかと思う。

 「3人称の生」は言い換えれば、「自分の知らない誰かの生」という事を指す。ちなみに私にとって、「知らない人より知っている人の方が大事」と思う。もちろん、知らない人は死んでもいいというような発想にはならない。ただ、私はそんなに人間が出来ていないので、知らない人のために貢献するよりは、知っている人ために貢献したい。

 読む哲学と言われる有名な漫画家である福本伸行氏の作品で、「カイジ」という漫画家がある。その中で、「本当に人を助けたければ金を出せばいい!でも人は他人のために金を出さない!」のようなセリフを読んだ時に、「確かに!」と当時、中学生ながら思ったのを覚えている。

 その時から「人は知らない人のためには自分を犠牲にしてまで助ける生き物ではなく、しっていても自分が大事だから、肝心なところは見て見ぬふりをする生き物なのだ!」と思い、今でもその思想は私は変わらない。しかし、見えている人は話が別である。その見えている人に関しては、私自身は「その人の価値」とは、「その人をどう感じるか?」という感覚に着眼点を置いている。

 簡単に言えば、私は「人の価値」とは本来「自分の感情」で「図るもの」考えている。もちろん、費用対効果や損益分岐、貸借対象等はある程度分かるが、それが大事なのは「貨幣制度」上の事であり、また職場などのビジネスの話である。ビジネス仲間であれば、そこに着眼点を置くこともある。

 「意味」も「価値」も、人間が創った「主観」からできたものであり、人間の中で分かりやすく「客観」を創る為に、言い換えれば、人間が納得するために創った「指標」の表れが「貨幣価値」や「労働価値」等のような数値化の世界になったと思う。

 ただ、そう考えてしまうと「知らない人間は自分にはある意味、命の価値はない」となってしまうという問題が生じる。もちろんそうは思っていない。ただ、自分のお金や時間を使ってまで助けようとは思わないのも事実である。

 私はもしかしたら「2人称の生(自分と関わる人)」にしか価値を見出せないかもしれない。そこに、「指標」は無く、ただ「感情」で価値があると感じるのである。それがいいか悪いかは私自身も、まだよくわからない。

 ただ、すべての人にこの「2人称の生(自分と関わる人)」は存在する。であれば、すべての人間にとって「価値のない生」は存在しないのかもしれない。そうであれば、すべての人に「命の価値はある」という事になるとも考えている。

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