哲学ブログ

夢と幻~現実~

「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢まぼろしの如くなり」・・・織田信長

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」・・・豊臣秀吉

 幻を想うことが幻想であるならば、夢を想うこともまた幻想に近い発想である。しかし、世間は「幻」という言葉が嫌いらしい。何故なら現実ではないからだ。「夢」は現実に成り得るものと仮定しているのかよく分からないが、現実に成り得ないものは、人間は嫌いらしい。しかし、「現実に成り得ない」からこそ憧れるという、めんどくさい一面もある。

 「何か良いことないかな~?」という言葉はよく聞く。この言葉は、夢というより幻想に近い。夢という言葉は2通りある。「寝ているときに見るもの」・「将来かなえたいもの」である。ちなみに、犬や猫、牛などの哺乳類も基本的に寝ているときは夢を見るらしい。脳波で調べた結果で分かったことである。

 子供に「夢を持て!」という親がいても、「幻を見ろ!」という親はいない。

 しかし、大人になればなるほど、「何か良いことないかな~?」等と言う様になる気もする。何か良い事があるように行動しようとは思わないが、願いはする。それは幻想的な発想である。「何か良いことないかな~?」と思えば、そうなるように行動すればいいのだが、中々できない。

 大人の方が幻をみたいものなのかもしれない。

 夢や幻は一般的な定義が違う為、例えば「お金持ちになりたいから医師になる!」という言葉は夢となるが、「お金持ちになりたいから宝くじを買う!」という言ほぼ幻になる。夢=幻ではないという事だ。しかし、本質は同じようなものであると私は考える。

 「夏草や 兵どもが 夢の跡」・・・松尾芭蕉

 有名な芭蕉の句であるが、

 ただ、私はある意味、夢も幻も現実だと考えている。何故ならどちらも「現実でみるもの」だからだ。人間の脳の作用の1部とも言える。みている本人からすると、夢も幻も現実である。であれば、現実の賜物である。

 ただ、夢がかなわなかった時、本当だと思っていたものが幻の様に消えた時に、「もともと無かったものかもしれない」と思ってしまうため、「現実ではなかった!」と思うのである。それは、精神的に傷付くのを避けるための本能だとなのかもしれない。しかし、それまでは、その夢や幻を見ていた(想っていた)意識は現実の賜物であり、その個人には存在していた感覚なのである。

 色恋沙汰も同じような物であり、好きな人が好きでなくなった時に、「さめた!」という表現を取ることがある。言い換えれば、「夢から覚めた!」、「幻(自分の理想像)が消えた!」と同じ意味合いである。しかし、それまで好きでいた現実は変わらない。

 また、夢や幻をみるからこそ追いかけることができ、そしてそれを達成した偉人が歴史上たくさんいる。夢や幻を見る事や考えることは、人間が人工的に進化させるための本能なのかもしれない。人間をホモサピエンスやホモルーディンスなどと定義ができて、他の霊長類から差別化する為の意識の賜物なのかとも考えられるのではないだろうか?

 その中で、「叶えられなかったり」「維持できなかったり」したときに、その事象を夢や幻だったと思えた方が、ある意味、納得できるため・・・言い換えれば「認めたくない自分」を納得させるため、そのような思考になるものだとも思う。

 人間は、良くも悪くも「認めない・認めたくない」ものは意識的にも無意識的にも除外するようにできているらしい。

 しかし、その中でも、「認めない・認めたくない」ものが自分の人生にあることを受け入れ、夢や幻も自分にとっての現実と考えられた方が、考え方の幅が広がるので、些か人生を面白く思えるものだと思う。

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yu-sinkai

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